【神戸逢知音記】朋輩たちの足跡をたどる神戸の旅

文化事業紹介


こんにちは、宮寺理美です。
先日、実に8年ぶりの神戸旅行に行きました。
前に行った際には完全に観光気分で、北野異人館などの名所めぐりに勤しみました。
特に心に残っていたのは異人館街に向かう「オランダ坂」という坂道。
本当に急勾配の坂道で、途中で断念しそうになった記憶がありました。

8年間で私は変わりました。
中国に向けてSNSを開設したことも大きいです。
しかし何よりも大きな変化は、私自身の興味の方向性です。
美しいと感じる物事のバックボーンにで興味を持つようになったのは、
年齢を重ねた事もありますが、何よりも深い知識を持つ友人たちに、
知的好奇心を刺激される機会が多くなった事でしょう。
今回の神戸旅行でも、中国という視点のチャンネル数の増えた今の私にとっては、
ただの観光地でも刺激的でした。

神戸は横浜とよく似ています。
貿易港によって海外の文化の流入があったので、当たり前の事かもしれませんね。
また、様々な場所にルーツを持つ人々がエリアを割り当てられ、各エリアで住み分けられていたこともよく似ています。
中華街、外人居留地、オフィスビルの立ち並ぶ元町。
でも、違うと感じた点もありました。そのひとつは、神戸は山がとても近いこと。
風が気持ちよい季節だったせいか、自然との距離感がより近く感じられました。
坂道も多いですね。しかも、坂道の勾配が半端じゃありません。

新幹線で新神戸駅に朝9時過ぎに到着し、
まず最初に向かったのは、神戸のご当地コーヒーチェーン、にしむら珈琲店。


特にInstagramのフォロワさんからは北野坂店をお勧めされました。
英国風の設えが素敵な喫茶店です。

珈琲もケーキも大変美味しかったです。神戸は洋食が本当に美味。
お膝ガードにショップオリジナルのタオルを貸してくださいました。親切


北野と言えば北野異人館街、西欧のイメージをお持ちの方も多いことと思います。
しかしここ、にしむら珈琲店の北野坂店は、上海にルーツを持っているのだそうです。

蔦の絡まる赤煉瓦の建築は、創業者故川瀬喜代子が戦時を過ごした上海の英国風洋館をモチーフにしたもので、今では北野坂のランドマークとなっています。
アンティークに囲まれた優雅なコーヒータイムで、きっと外とは違う時間の流れを
感じて頂ける事でしょう。

にしむら珈琲店


にしむら珈琲店は1948年創業。
中国で「民国時代」と呼ばれる時代は1911年~1949年まで、
1911年は日本では大正元年です。
当時の上海は「租界」と呼ばれる、特定の国家が権利を有する専管租界、
そして中国と最恵国待遇を結んでいる国なら進出可能な共同租界がありました。
上海は租界をベースに発展したと言っても過言ではないのですが、
そのせいか、神戸や横浜とも風情が似ていました。
私の上海出身の友人も、いつか「ホームシックになったら横浜に遊びに行っていた」
と話してくれました。

北野エリアからは少し離れた場所には中華街もあります。
神戸の中華街は「南京町」と呼ばれていますが、
どうやらこれは俗称のようです。
北野異人館街などで西欧文化のイメージが強い神戸ですが、
欧米人の使用人や職人として来日した中国の人々は、
当時の中国(清国)と日本の間に条約が無かったため、外人居留地に住めず、
外人居留地の西側、日本人との雑居が許されたエリアに住み始めます。
その一角が現在の南京町のルーツです。

早朝の南京町。昼間は具合が悪くなりそうなほど人が多いです。
路地裏の謎ショップ。



中国にルーツを持ち、中国国籍のまま異国に住む人々は「華僑」と呼ばれます。
そのほとんどは、おそらく19世紀以降の西洋の植民地支配で、
労働力として異国の地に移住した人々なのではないでしょうか。
華僑と華人を区別する場合もありますし、
異国に住む漢民族の中でも客家と呼ばれる存在もいたりで、
この辺の呼称については私もよく分からない部分が多々あります。

神戸には日本で唯一、華僑の歴史を展示する博物館があり、
私の香港の友人キリちゃんに勧められ、立ち寄ることにしました。
神戸華僑歴史博物館です。
展示内容は神戸の華僑の歴史について。
生活用品や、職人として生計を立てていた華僑の仕事道具も展示されていました。

横浜の廣東會館俱樂部から寄贈された中国服。
中国南方の獅子舞と思しき獅子の頭が仲間になりたそうにこちらを見ている


現在、東京をはじめ中国出身者が多いエリアでは、「ガチ中華」と呼ばれる、
中国現地の料理が静かなブームになっています。
横浜中華街にも「鮮肉月餅」というミートパイのような月餅を売る店を見つけたばかりですが、
南京町にも比較的現地に近い、けど現地とまるで同じではない中国料理が売られていて
「横浜中華街と風情が違うな」と感じたところだったのですが、
その謎は神戸華僑歴史博物館で解けました。
1980年代、中国の改革開放の影響で、新華僑が増加したのだそうです。
神戸華僑歴史博物館ではこれを「共存共栄の時代」と呼んでいました。

横浜中華街の「重慶って書いてあるけど重慶の料理売ってない」みたいなハチャメチャ感がないのが南京町。


ちなみに、南京町で一般客向けの中華料理店が出現したのは大正4年で、
豚まんの「老祥記」だそうです。
日本最初の豚まん専門店だと言われています。
ここも友人のキリちゃんに勧めてもらったのですが、
実は私は現在歯列矯正中で、マウスピース矯正をしているので、これがなかなか難しく、
次回に持ち越しになってしまいました。残念無念です。

現在の老祥記
華僑歴史博物館に展示されていた1970年代の老祥記

南京町を歩きながら1本のドキュメンタリー映画を思い出していました。
映画『華のスミカ』です。
監督は15歳の時にお父様が中国人だと初めて知った、華僑4世の林隆太氏。
林氏は横浜中華街の華僑コミュニティ出身の方ですが、
横浜中華街の中での対立など、難しい部分も描かれており、真摯な作品で好感を持ちました。

異国の文化と日本人たちの文化・習慣が混ざり合う神戸では、
欧米圏の文化との融合の方が注目されがちです。
しかし、少し注意を払うだけで様々な物事を発見できます。

今回の神戸旅行でもう1か所、立ち寄りたい場所がありました。
神戸市と明石市の境目にある明石海峡大橋のすぐそばにある、
目を引く外観の洋館です。



移情閣と名付けられたこの洋館は、現在は孫文記念館として運営されています。
日本で唯一、中国で国父と呼ばれる孫文の功績を展示する記念館です。

移情閣は大正4年築。
現存する日本最古のコンクリートブロック造建造物としても、大変貴重です。
華僑の貿易商、呉錦堂氏の別荘内に1915年に建てられた八角形の楼閣です。
日本人の感覚だと、楼閣は六角形が多いですよね。
竣工・設計は横山栄吉氏。名前から判断すれば恐らく日本人でしょう。

松海別荘は1913年に孫文一行が神戸を訪れた際の歓迎会の会場でした。
第二次世界大戦中は軍事施設として利用され、その後は華僑の集会所として利用されていたそうです。
しかし、その後の移情閣は、1965年の台風被害で荒廃していたそうです。
転機が訪れたのは国交正常化10周年。
これを機に、孫文とゆかりのある移情閣を、孫文記念館として再利用する機運が高まったそうです。
発起人の山口一郎氏は関西大学教授で、孫文の研究者でした。
1983年には移情閣が兵庫県に寄贈され、1984年には「孫中山記念館」として会館。
しかし、その後も苦難は続きました。


明石海峡大橋の建設計画もあり、移築計画が持ち上がりました。
しかし、建築基準法上は不可能だったそうです。
1993年に兵庫県が有形文化財に指定。
これにより法規上の問題はクリアし、建物は1994年から解体に着手。
1995年の阪神・淡路大震災の際は、解体中であったため被害を免れました。
この際に金唐革紙等の館内装飾・備品の復元製作が行われました。
金唐革紙は日本で10軒ほどしかありません。大変貴重です。

孫文の記念館そのものは、世界各所に点在しており、
特段珍しい施設ではないのかもしれません。
しかし、日本の孫文記念館は、設立にも運営にも日本人が関わっており、
その点では珍しいと言えるのかもしれません。
日本亡命中の孫文のエピソードは星の数ほどありますが、
どのエピソードを聞いても「お付き合いが上手だったんだな」という感想を持ちますし、
交流のあった日本人達からも、ものすごく尊敬され慕われている感じがひしひしと伝わってきました。


展示内容も孫文と日本人達や神戸との交流について重点的に紹介されており、
解説文も丁寧で好印象でした。
受付付近で神戸華僑と思しき年配男性がお喋りしていたり、中国からの観光客と思しき人や、
キラキラした外装に惹かれてやって来た家族連れなど、客層も様々でした。


孫文の支援者の1人として知られる南方熊楠は、約3ヶ月の間、ロンドンで孫文と親交を深めたそうです。
孫文はロンドンを去る際、熊楠に「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」と惜別の辞を記した、
というエピソードが南方熊楠顕彰館HPにて紹介されていました。
知音とは「お互いをよく知り合った友」の事なのだそうです。
現代では「マブダチ」とか「ズッ友」とか言うアレの事なのでしょうか。
私は2人のような壮大な人生は想像もできない凡人ですが、
神戸を歩き、私も知音の足跡をたどる事ができたのかもしれません。


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