着付けの近代史ー明治・大正時代編

和服


こんにちは、宮寺理美です。

「昔の人は着物が普段着だった」という言説、
着物がお好きな方ならずとも、よく聞く言説だと思うのですが、
「昔」とは一体いつ頃のことなのか、「普段着」とはどの程度の普段着なのか、
それによって随分話が変わってくるよなぁ、と常々思っておりました。

1960年代くらいに流行して、その後すぐに廃れたと言われるウール生地の着物があるのですが、
個人的には、そのくらいの世代が普段着(というかカジュアルなお洒落着)としての着物の、
最後の年代かな~などと、以前は薄ぼんやり思っていました。
そんな私に考えを変えるきっかけをくれたのは、ここ数年で収集した明治40年代以降の雑誌でした。
当時の感覚が少しでも知りたくて、着付けに関する記述を漁っていたところ、
色々な発見がありました。

今回はその発見をまとめ、個人的な研究結果について書き記したいと思います。
ちょっと長くなりすぎてしまったので、
明治~大正時代編、そして昭和~平成編と、2つに分けて書きます。
今回は明治~大正時代の着付けについてです。

Photographer 伴定良

明治時代の着付け

以前古書で入手した本に、こんな本がありました。
明治40年に発行された、『家庭要鑑』というタイトルの本です。


編集所は大日本淑女学会、編集権発行者には河野正義さんという方のお名前が掲載されていました。
この方のお名前を検索すると、
著述家・実業家・政治家(衆議院議員)・大日本国民中学会創立者と立派な肩書がズラリ…
大日本国民中学会は、明治35年に設立された通信制教育機関なのだそうです。
義務教育制度が導入されたのは明治33年。
この時代は教育制度の改革も今では考えられないほどたくさんあったことでしょう。
通信制という制度は、教育改革が相次いだこの時代には、必要とした人が多かったかもしれません。

日本の婦人服は、色彩が複雑してゐて美術的の意匠を凝らせば、どんなにでも出來るから、
婦人は天の成せる麗質と相待って、飽くまで其美を発揮することが出來ます。
それには衣服の仕立ても充分に吟味しなければなりませんが、
着つけは猶更氣を附ける必要があります。

『家庭要鑑』 第六章 衣服  第一節 着付け


この本は道徳教育も兼ねていたのか、
冒頭から「婦人とはこうあるべき」みたいなタイプのお説教から始まります。
着付けに関しても説教臭いです。

先づ襟から申しますが、之は成るべく狭く開けてゐるのが、上品なものです。
襟を開けて、半襟や胸元が見えるのは野蛮極まる事であります。
それから襟首です。
自體日本の婦人は、髱(たぼ)に油氣が澤山付いてゐますし、
襟元へ白粉を塗り付けるのですから、
白粉や油が襟肩に移らぬやうに、つきぬき襟をしてゐるという風で、
何うかすると張子の虎のやうに、悪く首を突出したものですが、
那は餘り見つとも好いものでありません。
さればと謂つて、反身になつて肩を怒らしてゐるのも奈何はしいものですから、
其處は中を取つて、襟の汚れる心配ばかりして居らぬやうに心掛けるのであります。

『家庭要鑑』 第六章 衣服  第一節 着付け


この本では「上品であれ」という言葉が何度も登場します。
また、文中に白粉と衣紋の関係性についての記述も出現しました。
現代のような肌色のファンデーションが一般に普及するのは、まだまだ先のこと。
この時代には、髪型は日本髪や束髪、メイクは白粉が一般的でした。
2017年に、大正7年に資生堂から発売された『七色粉白粉』の復刻品が限定販売されて話題になったのを思い出しました。
その人の肌色に合わせたメイクができるファンデーションは、当時としてはかなり斬新だったのではないでしょうか。

資生堂から7色のコンパクトパウダー「7ライト パウダーイルミネーター」1917年復刻モデルも限定でーファッションプレス

それから肝腎なのは帶の締方でございます。これは令嬢と謂はず、婦人と謂はず、
おたいこに限るやうでございます。

『家庭要鑑』 第六章 衣服  第一節 着付け


現代の和服も、ある程度の年齢より上の方にはとにかくお太鼓が正義!
という傾向が強いと思いますが、
この時代はまだ名古屋帯が開発されていないので、
ここに登場する「おたいこ」は、おそらく引き抜き結びと呼ばれるものだと思います。

※諸説ありますが、名古屋帯は大正13年に発売されたと言われています。
出典:学校法人越原学園 名古屋帯の創案者として

同じ御太鼓風の結び方でも、上の方へ引き上げると上品ですが、
下の方へ結ぶと何うも下品でいけませぬ。
尤も意氣と野暮とを論ずる時は、下品な方が意氣で上品な方が野暮でありまして、
凡そ上品と意氣と、下品と野暮とは、何うしてもあい入れないもので、
何とも致方がありません。
叉引つ掛け結びは、略式の時に限る結び方で、素より上品ではありませんが、
之れとても結び様で極めて下品にもならうし又然うでもなく見えます。
藝妓などが行つて居るように帶端を長くすると意氣ではありますが、
甚だ下品ですから素人があんな真似をするのは實に見られたものではありません。
叉やの字結びは、十二三歳位までの嬢様に限つたもので、
帶地は厚板織と定まつて居りまして、之は上品な結方でございます。
其じゃら猫ぢやらしといふ結び方は帶の両端をダラリとぶら下げたもので、
半玉などに能く見受けられますが、如何にも下品であります。
無論真似するべきものではありませぬ。

『家庭要鑑』 第六章 衣服  第三節 帶のいろゝ


ここに登場する「引つ掛け結び」は、よく江戸時代の庶民の帯結びとして紹介されるもので、
「お太鼓」の四角の、下の部分が輪になっておらず、ブラブラした状態の帯結びです。
それにしても、一般女性が花柳界の女性に憧れて真似をするのを嫌っているのか、
めちゃくちゃ説教飛ばしてきますね!
この本は時々古本市場で流通しているので、結構出回った本なんじゃないかと思います。
また、白粉の記述などから、
着付けはメイクの変化からも少なからず影響を受けていることが垣間見えました。

私の収集品より、明治時代の芸者さんと思しき女性のブロマイド
こちらも私の収集品より、明治時代の舞妓さんのブロマイド


では、少し時代を進めまして、
今度は大正時代の着付けを見てみましょう。


大正時代の着付け

古本の収集をしていたところ、当時の婦人誌の付録を何点か集めることができました。

大正10年 婦女界 第二十五巻第一號附録
婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡
誰でも美しく見せる化粧と着付け 遠藤波津子

こちらの記事を書かれた遠藤波津子さんは、
アメリカ式美顔術(今で言うエステ)を導入して洋式美容室を開店した方で、
メイ牛山さんや山野千枝子さんよりも、当時は有名人だったようです。
遠藤波津子さんが開いたお店は、なんと令和の現代でも営業を続けているようです。

Hatsuko endo weddings Brand Story

記事の内容で、少々注意が必要なのは、
こちらは「花嫁の正装」や「訪問着の着付け」のような、
礼装の着付けのノウハウ共有記事だという点です。

花嫁の正装

着付けの土臺は長襦袢にあるのですから、その仕立方を工夫せねばなりません。
身丈は長過ぎても短くても困りますから、踵一杯に仕立て、衿は寫眞及び挿畫の通り、
着物の衽のやうなつもりで、衿芯を付ける時に、圖で示すやうに肩からなぞへに着物の衿を付けると同様にして掛けますれば、
衿がはだけたり、前身が釣れたりする憂がなく、從つて着崩れがいたしません。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡 衣裳着付けの秘訣

現代の着付けの本は襦袢の着付けよりも手前に補正の記述があるのが普通なのですが、
こちらの本に関しては体形補正の記述は登場しません。

着付けの前に用意すべきものは、
伊達巻二本。腰紐二筋。しごき。帶揚げ。帶止め(白の丸くげ)足袋とストッキング。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡 衣裳着付けの秘訣

という感じで、補正に関してはこちらでもノーコメントです。
また、花嫁衣裳の定番の「懐剣」も登場しません。
「帶止め」は帯締めのことですね。

先づ長襦袢を着せるとすぐ伊達巻で身體の恰好を作るように、
乳やお尻の大きい方は、この時に隠します。
そこへ重ねておいた三枚襲なり二枚襲なりを着せ、腰紐で腰から下の恰好を定め、
衿を合わせた所へも一つ紐を締めるのです。
そして伊達巻をしつかりと巻き、その上へ飾りとして帶を結びます。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡 衣裳着付けの秘訣


胸やお尻の体型補正については、「隠します」とは記述があるものの、
具体的な隠し方は言及されていません。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡


また、現代の礼装では定番の「重ね衿」も登場しませんが、
重ね衿はこの時代にはまだ現役の風習だった、
「三枚襲」「二枚襲」と呼ばれる重ね着の風習を簡略化したものだからだと考えられます。
重量があるのと、費用が嵩む事から、重ね着の習慣は廃れたと言われています。
そして、着付けの解説の最後は、こんな文章で締めくくられています。

これで一通り着付けを終りますが、
足袋を履く前にストッキングを忘れぬやうに用いて下さい。
美しいお衣裳の裾から、黒い脛の露はに見える事があつては、興覺ましなものでございます。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡 衣裳着付けの秘訣


現代の着付けの教則本だと、足袋は最初に履いておくように、と必ず念押しされるので、
最後に書かれているのもちょっとびっくりです。
また、防寒についての言及もあり、「真綿を着る」という面白い方法が紹介されていました。

覺えて置いて一寸重寶なこと

極寒には真綿を用ひると姿がよくなります。

真綿の着方

袋の横の方をイロの線の通り、一寸五分位切つて手を通す所にいたします。
ハは衿肩で、寸法は地震の首の周りに合ふやうにお切りになればおいのです。
前の方をニのやうに切つて置き、裾の方ホの所は、よくほぐして置きます。
束髪の方なら被つてお召しになり、日本髪の方の時は裾から穿くやうに致します。
かうしますと、寒さを感じる所へは全部當つて居りまして、
裾の方はほぐしてあるから着物に段が付かず、
特別にコロゝとなる所がなくて、格好のよいものです。
肌に直接これを着て、その上から肌襦袢をお召しになれば、
寒い時に冷い着更へにも決して風邪を引く心配がなく、
花嫁様などはお湯上り後すぐにこれを着て了ひますと、
何度お召更があつても平氣でゐることができます。

婦女界新年號特別附録 美容顧問ふところ鏡 衣裳着付けの秘訣

花嫁衣裳の着付けの完成形
真綿の図解

現代の礼装の着付けだと、ヘアセットが崩れるからと、
「被り物」と言われる、体の前で開かないタイプの服はNGだとよく言われるのですが、
こちらの記述では「束髪の方は被ってお召になり、」と書いてありますね。
束髪ってそんなに頑丈だったのかしら…
また、着物に段が付かないように裾の方はほぐす、という工夫がされています。

訪問着の着付け。縞の訪問着は現代物には無いかもしれません。
襲の花嫁衣裳

この雑誌の発行から2年後の雑誌でも、
遠藤波津子さんはノウハウ共有の記事を書かれていました。

大正12年 婦人倶楽部 第三巻第一號附録
新年號特別附録 各人各様美容化粧法及衣裳の着付

婦人倶楽部 第三巻第一號附録 新年號特別附録 各人各様美容化粧法及衣裳の着付

衣裳の着付法 遠藤波津子

着崩れは何んの爲か

よく皆様方の内に衣服を召して着くづれをなさるといふ方がございますが、
此の着くづれのするとしないは、長襦袢の召し方やその仕立て方一つによるのでございます。

婦人倶楽部 第三巻第一號附録 新年號特別附録 各人各様美容化粧法及衣裳の着付


この項目はちょっと文章が長かったので、ポイントをまとめました。
・襦袢の身丈は長くなく、つり丈(対丈?)で作る、前丈を一寸長くする
・襦袢の余丈は、脇縫いの時に袖付け下のところに溜めておく
・襟をぬき衣紋にしなくても、ぬける様に作る
・肩山は普通にして、背縫いをするときに二分後ろ丈を詰めて縫う
・袖幅を普通より少なくして八寸にする(身幅を五分広く、袖幅を五分詰めて作る)
など、襦袢を自分で縫うのが前提のノウハウ共有が目立ちました。

長襦袢の丈についての記述は、
おそらく、着物と同じようにお端折りをするタイプの襦袢もあったからだと思います。

また、こちらも礼装の着付けのノウハウ共有ですが、
さきほどの記事よりも丁寧な記述がされていました。

禮服の場合

禮服ばかりでなく、訪問服又は日常服の場合でも
胸のはだかつて居りますのでは誠に醜いものでありますが、殊に禮服の場合は注意しなければなりません。
長襦袢も禮服の時は一寸丈を長く致します。
かう致しましたら、先に長襦袢を召しますが、素人の方はよく後ろの方に紐をおつけになりまして、それで長襦袢をおしめになりますけれど、
それは胸がはだかり易く又着くづれがし易うございますから、紐でなり伊達巻を用ひまして、
襦袢ですつかり體躯の形をこしらへる考へで伊達巻できつしり巻きしめます。
そして其の上にお召し物を着ます。

そこで腰紐でございますが、申上るまでもなくしつかりした物を用いますが、
殊に冬は二枚物、三枚物のお召し物でございますから、
下をメリンスの紐で堅く、後で緩みの來ない様にしめて了ひまして、
其の上に絹の紐を巻くと宜敷うございます。
それから、衣紋紐と申しまして、お衿から胸の恰好を拵へまして、細紐でしめます。
そしてその上に伊達巻を致しますが、それも帯の位置をこしらへ乍ら、
若し端折が多い時は適宜にして余分は伊達巻の下に入れて了ふ様にして、伊達巻を巻きます。

婦人倶楽部 第三巻第一號附録 新年號特別附録 各人各様美容化粧法及衣裳の着付

メリンスとは当時流行した毛織物のことです。
横浜港から上がったものをメリンスと呼んだ、という噂を聞いたことがあるのですが、
こちらの真偽はまだ調べていないので、噂話程度の情報だと認識していただければと思います。
メリンスについても、機会を作ってきちんと調べてみたいと思います。

そうしてから帶をしめますが、之れは装飾と云ふ心持でしめなくてはなりません。
帶は伊達巻さへそつかりして居りますれば、決して緩むものではございません。

婦人倶楽部 第三巻第一號附録 新年號特別附録 各人各様美容化粧法及衣裳の着付



遠藤波津子さん流の着付けですと、伊達締めをしっかり締めれば着崩れはしない、
帯はあくまで装飾、という考え方だったようです。
また、国会図書館デジタルコレクションにも、着付けに関する大正時代の書籍が公開されていました。

大正15年 清水津奈子女史監修 美容術講習録
第4巻 着付と帯の結び方及婦人洋服の着方

発行所は『新婦人協會』
平塚らいちょう、市川房枝、奥むめおらを中心に結成された、
日本初の婦人団体と言われている団体です。
団体の設立目的は婦人の社会的・政治的権利獲得だったそうです。
冒頭にはこんな言葉が記されていました。

此の講習録は、正しい美容術を習ひ覺えて、
將來美容師として社會に達度いご思い乍ら、事情にはゞまれて良師に就て就業することの出來ぬ人達の熱望に促され、通信によって、學識と技術とを備へた立派な美容師を養成する目的で發行されたものであります。

清水津奈子女史監修 美容術講習録 第4巻 着付と帯の結び方及婦人洋服の着方


このような言葉がこの本に収録された背景には、当時の時代背景が深く関係しています。
明治4年8月に発布された「散髪脱刀令(断髪令)」がきっかけで、
所謂「日本髪」からの脱却が始まります。
明治時代中後期には、自分で結うことができ、経済的で衛生的だという理由で、
束髪が大流行しました。
明治時代後期以降は、急激な近代化の中、西洋的な髪型の流行に加えて、
美容学校がどんどん設立されていきます。
明治43年には神田に明治理髪学校、大阪に大阪理髪学校が設立。
大正2年には東京女子美髪学校、翌年大正3年には私立日本女子美髪学校。
大正5年には、大阪美髪女学校が設立されます。
出典:美容現代史 日本理容美容教育センター

このような時代背景の中、「職業婦人」として理容師を目指す女性も少なくなかったでしょう。
師弟制度や奉公などが当たり前だった江戸時代からの流れを考えると、
女性の社会的・政治的権利獲得を目指した『新婦人協會』が、
学校に行くことができない女性たちを支援するのも納得です。

少し話が逸れてしまいましたが、また着付けの話に戻りましょう。

胸のあまり張つたのは、日本服では見苦しいものですが、
叉あまり平つたいのも冷たい感じがします。
殊に乳の處は幾分か丸味を持つた方が情味がありますから、
わざゝ半巾や綿を中に挟む事もあります。

清水津奈子女史監修 美容術講習録 第4巻 着付と帯の結び方及婦人洋服の着方


現代の着物の世界では、
「直線的な服を着るのだから、体も直線的に補正する」という価値観が一般的だと思いますが、
この書籍の中では「適度な補正」を奨励しています。

訪問着の着付け

先づ初めに肌襦袢を着ます。
肌襦袢はなるべく薄いものがよく襟は細くして、長襦袢を重ねた時に長襦袢の襟よりも少し引つ込む位でなければなりません。

清水津奈子女史監修 美容術講習録 第4巻 着付と帯の結び方及婦人洋服の着方


ここで初めて、長襦袢ではなく肌襦袢に関しての記述が登場しました。
こちらも、これ以降は少々文章が長かったので、内容をまとめました。

・腰紐を長めに作って三巻する
・初めの二巻は前の方を高めに、後ろ側は低めにして、三巻目は上の方で無圖部
(反対に後ろ側を高くするとお尻が大きく見え、歩くときにお尻が動くのが目立って見苦しい)
・伊達巻を胸高にしめて、上下にずらして巻くと胴体が締まって恰好よくなる
・背中の布を脊の両側から内側に織り込んで扇形にすると肩巾が狭く見える

最後の項目はよく「タックを取る」と表現されるようになっていきます。
こちらの本でも、着崩れ防止や恰好よく見える着付けの方法などが紹介されていました。

Photographer 伴定良


今回は明治時代の本当に後期の方から、大正時代の着付けに関する記述をまとめました。
雑誌や書籍を読み解く中で私が感じたのは、
この時代の教育的な側面や、働く女性の地位確立に対する動きだと感じました。

現在のおいての着物は、残念ながら服飾文化というよりは、
カルチャースクールの科目のような扱いをされる事が多いです。
季節のルールや着付けの形に関するルールはそれだけ根強く浸透している反面、
それが原因で堅苦しさや面倒くささといった、マイナスの要素も強くなっています。
(良し悪しはともかく、ハイコンテクストな高級品としてのマーケティングが成功していた、という事の証明でもあると思います。)

私はこれらの現象は、第二次世界大戦後から始まったものと認識していましたが、
「美容家」「美容師」などの職業の確立と共に、
明治時代~大正時代には既にこの潮流があったのだと感じました。
また、職業婦人=働く女性たちの地位向上に尽力した人々の活動もあり、
やはり、ファッションとは社会とは切っても切り離せない関係なのだな、と実感しました。

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