こんにちは、宮寺理美です。
前回は中国という視点から神戸旅行を辿ってみました。
でも実は、今回の神戸旅行はもう一つのテーマがありました。
それは「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化です。
すごくシンプルに説明してしまえば、大正時代~昭和初期の大阪から神戸にかけての文化の事を意味しているのですが、
その背景ある様々な事情、例えば地理的な事情や経済発展の事情などを、今回の神戸旅行で体感しました。
体感を文章で表現するのは難しいですが、ここに書き記してみたいと思います。
神戸に到着して最初に向かったのは、観光名所でもある北野異人館街です。
前回の記事でも書いたように、神戸は横浜と似ていますね。
しかし、横浜の「山手西洋館」と呼ばれるエリアは移築された建築が多いのに対し、
神戸の北野異人館街は建築当初から移設されていないケースが多いようです。
坂道や階段をヒーコラ登る私達を、
高台のお屋敷が優雅に見下ろす様はずっと変わっていないんですね。
北野異人館のランドマークとも言える「風見鶏の館」は長期休暇中で内部見学はできませんでした。
ハーフティンバーと呼ばれる骨組みが露出した構造や、風見鶏を頂に乗せた尖塔、
そして赤煉瓦の外壁が印象的で存在感のある洋館です。
来年2025年の3月末までの休業を予定しているそうです。
前回来た時も風見鶏の館は休館していたような気がします。内観を見学した記憶が全く無いのです。
とことんご縁がないのか、はたまた私の記憶力がポンコツなのか分かりませんが、
次回に期待することにします。
建築年代は明治42年頃だと言われているそうです。
お隣には「萌黄の館」と呼ばれる少々小ぶりな洋館。
外壁は下見板張りと呼ばれる技法で、雨風の侵入を防ぐ、木造建築に多く見られる技法です。
以前は白色に塗られた洋館だったそうですが、建築当初の色が発覚してから今の色に復元されたのだとか。
建築年代は明治36年。
2階のサンルームからは神戸の街並みを見下ろすことができます。
元々はアメリカ領時のハンター・シャープ氏の邸宅だったそうですが、その後は所有者が変わり、
昭和19年以降は元神戸電鉄社長の小林秀雄氏のお住まいだったそうです。
風見鶏の館、萌黄の館より更に高台にあるのが、丸い天然石が並んだ外壁と2つの塔が印象的な建物。
こちらは「うろこの家」と呼ばれる明治初期の建設、
大正時代になってから現在の場所に移築されたと言われているのだそうです。
住宅として実用されていたからか、
北野異人館街には「大体このくらいの年代」みたいな表記が多いですね。
うろこの家はギャラリーとなっており、入館料はその見学費用も含まれているためか、
東京都内の美術館と同じくらいの金額です。
イギリスの名窯『ロイヤル・ウースター』、ドイツの古窯『マイセン』、
デンマーク王室御用達磁器工房『ロイヤル・コペンハーゲン』、フランスの古都リモージュの『ロバート・アヴィランド』などなど、
西洋の陶磁器のコレクションが所狭しと展示されています。
が、装飾のある食器棚の中におさめられているのものも多いです。
食器棚のガラスはぴかぴかに反射しますので、こういうのはよく見えなかったです。
一丁前に美術館と同じくらいの入館料でも、観光客なら文句言いませんしね。
コレクション目当ての人のリピートはおそらく無いでしょう。
しかし、この日はお嬢さん向けのゲームとのコラボイベントが開催されていたようで、激混み。
ぬいぐるみやキャラクターグッズの写真を熱心に撮影しており、
スマホ画面に注視するあまり周りは見ていない方がとても多く、
階段を登り切った場所で突然立ち止まったり、撮影しているスポットからずっと動かない方がとても多く、
しかも外には何の案内もありませんでした。
知らずに入ってしまった私にとっては地獄でした。
二次元コラボで集客するのはいいと思うのですが、一般客が判別できるようにして置いて欲しいものです。
始終こんな感じだったので、正直あまり良い印象がありませんでした。
美術館クラスの入館料取るならもう少し配慮があってもいいのでは…
もう1軒寄りたかったのが英国館です。
建設は明治42年頃。
建設当初のまま美しく保存されているコロニアル様式が見どころの英国館は、
モダンデザインの父と呼ばれるウィリアム・モリスのファブリックやアンティーク家具など、
内装も格調高くまとめられています。
そして、バーカウンターも見どころのひとつですね。
そして、世界で一番有名な英国紳士、シャーロック・ホームズの部屋や事件を再現しているコーナーもあります。
入口ではインバネスコートと帽子も借りる事ができます。
この日もシャーロック・ホームズルックではしゃぐお嬢さんを度々お見掛けし、
楽しそうな様子にホッコリした気持ちになりました。
さて、異人館と呼ばれるこのような建物のほとんどは、明治時代に建設されているものがほとんどです。
しかも、住み心地は良いかもしれないけど、移動は大変な高台のお屋敷。
ちなみに、私は和服に下駄履きでいきましたが、全くオススメいたしません。
慣れている方でも運動不足の現代人には大変きついかと思います。
(私は足腰が特別丈夫なようで…)
つまり、何かしらの乗り物を利用してここまで帰宅できる生活水準・経済水準の人々の住宅だったのでしょう。
その多くは異人、つまり外国人だったわけです。
神戸市役所によれば、運上所(現神戸税関)の業務開始が明治元年、
外国人居留地が神戸市に編入したのが明治32年です。
このように明治時代に海外から日本に仕事でやって来た人々が住んだ屋敷は、
その後は持ち主を変えながら維持され、重要文化財に指定される等して現在に至るわけです。
市営地下鉄三宮駅構内に、明治時代の神戸港を描いた浮世絵が壁画として使用されています。
神戸市立博物館が所蔵する『摂州戸海岸繁栄之図』です。
実は、時間があれば立ち寄ろうと思ってはいたのですが、
駅構内があまりにも複雑で迷路のようで、立ち寄るのは私には到底不可能でした。
三ノ宮駅・JR三宮駅はまさに観光客殺しです。
浮世絵の中には何隻もの蒸気船、洋船、和船も描かれています。
洋装の外国人や洋行帰りと思しき洋装の日本人の姿も見えますが、髷を結っている日本人の旅人の姿も描かれています。
当時の日本人たちの生活はまだまだ西欧のそれからは遠かった事が伺えますね。
神戸市のお隣、芦屋市には、大正時代の素晴らしい建築も残されています。
現在はヨドコウ迎賓館と呼ばれる旧山邑家住宅です。
近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト氏が大正7年に設計した建造物で、
灘五郷の造り酒屋の当主、山邑太左衛門氏の別荘です。
フランク・ロイド・ライト氏はアメリカに帰国してしまったので、
弟子の遠藤新氏、南信氏が完成させたそうです。
ライト建築と呼ばれる彼の作品には熱狂的なファンがいます。
私は熱狂的までとはいかないまでも、それでも彼の作品には関心を示さずにはいられません。
彼の手掛けた建築物は、現代人の私の目にも革新的です。
ライト建築のほとんどは、解体や移築などで建築当初とは違う形で保存されています。
しかし、ヨドコウ迎賓館は建築当初と同じ形で保存されています。その点がとても貴重です。
自然との融合を大切にしたフランク・ロイド・ライト氏の理念が体感できるという点でも大変貴重で、
ただこの空間にいるだけで、美しい木漏れ日が複雑な形の石材からさしこみ、
窓からは風がそよそよと入ってきます。
以前、愛知に旅行に行った際に立ち寄った明治村でも、
フランク・ロイド・ライト氏の作品である旧帝国ホテルで光の美しさを実感しました。
旧帝国ホテルは、ご存じの通り当初は東京にあったのですが、中央玄関部分のみ博物館明治村に移築されています。
こちらのヨドコウ迎賓館では、建築当初と同じ場所で、
同じ光や風を感じることができ、何とも言えない感慨深い気持ちになりました。
敷地に対しての建造物の配置や設計が実に巧妙です。
ライト建築の最大の特徴は、この巧妙な設計によってもたらされる居心地の良さだと私は思います。
大きな照明が必要ないほど採光がよいため、このような解放感のある空間が実現できるのでしょう。
先述した通り、大正時代から昭和初期にかけて、
大阪から神戸の間で発生した都市生活やそれに付随して発生した文化は、阪神間モダニズム文化と呼ばれています。
私がこのような文化を知ったのは、谷崎潤一郎の作品『細雪』が大きなきっかけでした。
『細雪』は船場言葉と呼ばれる西の言葉で主役の四姉妹やその他の人々の会話が綴られています。
この言葉のイントネーションやニュアンスを拾うのが、関東で生まれ育った私には大変難しいです。
四姉妹の内、次女の雪子と四女の妙子の結婚を主軸に進むこの物語は、神戸市で書かれました。
倚松庵と書いて「いしょうあん」と呼ばれるこの建物は、
引っ越し魔の谷崎潤一郎が7年も住んだ邸宅なのだそうです。
前に神戸に来た際にも寄りたかったのですが、スケジュールが合わずに断念したので、
今回やっと訪問がかない、感無量でした。
受付を済ませると、スタッフのお姉さまが私の着物姿にどえらい関心を示してくださり、
やっぱりこの空間にいる方は、年代物の着物はお好きなんだろうなぁ…
なんて勝手に思っていたところ、
「今日は先生方がいらしているんですよ、さぁさぁ」と玄関付近から奥の部屋にずんずん押しやられ、
戸惑いながら長くて広い廊下をドンブラコ。
そして、全く知らない方が勢ぞろいしているお部屋に通していただきました。
なんとこの日は、谷崎潤一郎の研究者であり、この倚松庵をはじめ、
谷崎潤一郎の邸宅の保存に心血を注がれる、たつみ都志先生がいらしていた日だったのでした。
(こんな時は、知らない人に囲まれても全く動揺しない厚かましい私の性格が大変活きる機会です。)
結局、翌週に東京で開催された、たつみ先生の文学講座に参加させていただきました。
谷崎潤一郎の作品と邸宅の関係について等の貴重なお話をお伺いして、
始終唸りながらひたすらメモを取り、うんうん頷きながら興奮しっぱなし。
あっという間の時間でした。
ただただ作品を読むだけだった私の脳みそに新しい回路が組み込まれたような気持ちです。
たつみ先生の書籍『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎~その棲み家と女~』も読ませていただきました。
谷崎潤一郎の邸宅と作品を関連付けての研究や、保存活動に文字通り心血を注がれた事などが綴られており、
私がこの日にこの場所に行けたのは、こうしてたつみ先生が頑張って下さったおかげなんだなぁ…としみじみ。
やっぱり、世界には当たり前の事なんてひとつもありませんね。
書籍は入手しにくくなっているようですが、kindleでは読むことができます。
さて、皆様との楽しいお話を終えたら見学スタートです。
長い廊下をドンブラコするときに横目で見た居間に改めて入ってみて、
『細雪』のまんまじゃん!と感動しました。
作品を読んだことがある人なら分かると思うのですが、本当にそのまんまなんです。
『細雪』に登場する四姉妹のモデルは、谷崎潤一郎の夫人の松子さんとその姉妹たち。
たつみ先生によると、松子さんは後年「細雪は日記みたいだ」と仰っていたのだとか。
しかし、物語の中に登場する家より少し小さめです。
物語の中では各部屋がプラス一畳くらいのサイズ感で描かれていたそうです。
2階にも『細雪』の世界が広がっています。
各部屋には親切に、『細雪』のどのシーンにこの部屋が登場したのか解説があります。
行きにしに細雪の冒頭部分を新幹線の中で読んでいたせいか、感動マシマシでした。
建物だけでなく庭木にいたるまで『細雪』の世界を再現された倚松庵ですが、
私はこの2階の四畳半の小さな部屋が1番心落ち着きました。
作品にはこの部屋はあまり登場しませんが、最後の最後の印象的なシーンで登場します。
次女雪子と四女妙子の旅立ちのシーンです。
雪子には有り余るほどの祝福が。
片や、自由恋愛の末に自力で幸せを掴もうともがく妙子は祝福されない。
現代人の私としては妙子ちゃんを祝福したいですが、当時としてはそれは難しかったのでしょう。
「そういう時代」と片付けてしまえばそれまでですが、色々と考えずにはいられないシーンです。
私は東京に帰ってから一冊の本を読み始めました。
現在の阪急阪神東宝グループの創業者、小林一三氏の自伝です。
観光客殺しの三ノ宮駅・JR三宮駅を見て分かるように、神戸周辺は鉄道が異様に発達していて、
海岸と山に並行して、阪神神戸線、JR線、阪神本線、の3線が運行しています。
小林一三氏は当時としてはかなり先進的な、鉄道を中心とした田園都市構想を実現させました。
また、観光事業と鉄道事業をリンクさせて相乗効果を狙うやり方も小林一三氏の発案です。
現在何かと話題の宝塚歌劇団の前身である宝塚少女歌劇団も、
実は既存の温泉地ではなく新たに温泉施設を開発するとともに、
巨大な室内プールを中心としたレジャー施設を建造する予定が、
海外のプールは適度に水温を温めていることを知らず、水が冷たすぎてなんとアイディア倒れになってしまい、
考えあぐねてプールを改造した劇場で旗揚げ公演をしたものが成功した、
というエピソードが自叙伝にも掲載されていました。
小林一三氏のこのような施策は、阪神間モダニズムと呼ばれた文化の骨子だったのかもしれませんね。
氏は文学青年の一面も持っていたようで、弁舌爽やかな自叙伝ではあるのですが、
前半はほとんどが銀行のエピソードで、正直に言えば何度か挫折しそうになりました。
今回の旅行では、正直ここまで阪神間モダニズムについて考えようとは思っていませんでした。
しかし、めぐり合わせとても言いますか、
やはり興味のある場所を回っていると考えることもどんどん増えていき、
点と点がつながった感覚になる事もしばしばありました。
本を読んでいると知識としては頭に入っていくものも、
現地に行って、そこを歩いて見てみると、
知識が実感になっていくんだなぁ、とひしひしと感じる旅でした。
帰宅してしばらく経ちますが、吸収したことが多くてなかなかブログを書けずにいたのですが、
今は無理にまとめようとせず、のちのちの自分に任せよう、と舵を切り替えて、
ひとまずの記録として、この記事を残したいと思います。
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