去年ぶりに、雪花絞りの浴衣に袖を通した。柔らかい生地が肌に心地よい。
合わせたのは、レモン色の博多帯。
浴衣には小物を足さず、シンプルに着こなすのが私の好みだ。
雪花絞りの幾何学的な、それでいて花のような模様が目に涼しい。
私の浴衣は白と青。まるで雪の結晶のようだ。
姿見の前で最終チェックをする。
うん、オッケー。涼しそう。
暑苦しいコーディネートは絶対したくない。
視覚的な涼しさは、実際には涼しくしなくても、心だけは涼しくしてくれるはずだ。

しかし、そんな気持ちは玄関の扉を開けた瞬間に消し飛んだ。
ムワッ
そんな擬音が似合いそうな夏の空気が、私に襲い掛かる。
私は一瞬怯む。
けれど、そんな事で臆していては、浴衣で出かける事など到底できない。
もうすぐ日の沈む時間だし、駅のホームに到着さえすれば、多少は涼しいはずだ。
冷えたペットボトルと、首筋を冷やすための保冷材も持った。
私は自分を奮い立たせ、扉の外への一歩を踏み出した。
あまり人が歩いていないのは、きっとみんな命が惜しいからなのだろう。
心なしか、地面のそばが揺れて見える気がする。
夏の蜃気楼だろうか。
そんな空気の中、見知った女性がいた。
手にはバケツと柄杓。綺麗に弧を描いて路面にはじける水が、夏の夕日にきらめく。
ご近所に住む、仲良しのお姉さまだ。
自宅前の道で打ち水をするのは、神田で生まれ育った彼女の夏の習慣なのだろう。

「やるじゃないの」
私がそばまで行くと、お姉さまはにんまり笑ってそう言った。
「この暑いのに浴衣なんて。江戸っ子よ」
江戸っ子はやせ我慢。「格好つけるためなら、暑さなんか屁でもねぇ」という事だろう。
私の浴衣は、お姉さまがいつも語る、江戸の美学を刺激したようだ。
「前にも言いましたけど、私、埼玉出身ですよ?」
「もう10年も住んでんだろ?3日住んだら立派な江戸っ子よ!それに、いい浴衣ね」
「ありがとうございます!雪の花って書いて雪花絞りっていうんですよ。ステキな名前ですよね」
「ほんとねぇ。あなたにも似合うわ。女優さんみたいよ」
雪花絞りの浴衣は、比較的最近人気が出た浴衣だ。
ビールのCMで、宝塚歌劇団出身の人気女優が着ていたの印象深かった。
お姉さまも、もしかしたらこの広告を見ていたのかもしれない。
へへへ、と照れ笑いがこみ上げる。
お姉さまは私をひとしきり褒めてから、犬の散歩に出かける支度を始めた。
別れの挨拶をして、駅に向かう。
もうすでに汗だくだったが、心は少し軽かった。
女優さんは、こんなに汗をかかないかもしれないけれど。
いつもより少しだけ背筋を伸ばして歩きながら、
私は、昭和初期の雑誌を思い出していた。
女優という職業が、まだまだ希少だった頃の、美しい浴衣姿を――
***
昭和初期の雑誌をめくると、当時の「女優」がたびたび登場します。
当時の映画界を彩った人気女優たちが、美しい浴衣姿で微笑みを浮かべているのを見ると、
夏の不快さが、一気に吹き飛びそうです。

現代では、男女ともに「俳優」と呼ぶのが一般的になりつつありますが、
この時代の「女優」という言葉には、少し特殊な事情があります。
現代でも歌舞伎などの伝統芸能では、女性の役を男性(女形)が演じるのは一般的な事ですが、
「人前で役を演じる」という職業に女性が存在しなかったのは、近代化以前の日本では常識でした。
「女優」の誕生は、映画の普及と深い関係があります。
日本で初めて映画が上映されたと言われているのは、明治29年の神戸。
大正時代になると、東京には日活向島撮影所や松竹鎌田撮影所が開業されていきます。
当初の映画は演劇の再現が多く、女性の役も「女形」が勤めていました。
しかし、ハリウッドの影響や、「映画は演劇の模倣であってはならない」という趣旨の「純映画運動」の末、
女形ではなく女優の起用につながっていきます。
こうして映画は、大正時代の人々にとって、最新メディアのひとつに成長していったのです。
スクリーンに登場した「本物の女性」。
その麗しさは、当時の人々にとっては、大変な衝撃的だったことでしょう。
「女優」とあえて呼ぶのは、この時代の空気感なのかもしれません。
女性が職業を持つのもまだ難しかった時代。
女優たちは「経済的自立」という意味でも、女性たちの憧れの存在でした。
当時の雑誌を見てみると、女優たちが着物の着こなしだけでなく、メイクの方法なども紹介しています。
中には、インタビュー風の広告も。
まるで現代のインフルエンサーのようですね。
昭和初期の女優たちが着こなす新作浴衣も、もちろん広告です。
今でいうところの「タイアップ広告」というところでしょうか。
古典的な柄、モダンなトランプ柄、日本髪ではなく耳隠しヘアで浴衣を着こなす女優たち。
彼女たちが纏っていたのは、浴衣だけでなく、
近代化の時代を生きた女性たちの憧れや希望、
そして、新しい時代の夢もまた、一緒に纏っていたのかもしれません。

女優たちが広告を彩った時代から約100年。
雪花絞りの浴衣に袖を通すたび、
私は、そんな夏の夢の続きを生きているような気持ちになるのです。
***
時を超えて紡がれる物語『大正浪漫譚』は、日曜の夜にお届けしています。
また来週お会いしましょう。
宮寺理美

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