江戸情緒と人権侵害 ー 旧吉原遊廓を訪ねて

文化事業紹介

江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであつた。
明治時代の吉原と其附近の町との情景は、一葉女史の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」、
泉鏡花の「註文帳」の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。
わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行つたのは明治三十年の春であつた。
「たけくらべ」が文芸倶楽部第二巻第四号に、「今戸心中」が同じく第二巻の第八号に掲載せられた其翌年である。

ー 永井荷風『里の今昔』

こんにちは、宮寺理美です。
私は永井荷風と川端康成が、何となく好きになれません。
永井荷風は浄閑寺で女郎に同情を寄せていたエピソードも有名ですが、
彼の作品からもそのエピソードからも、
「自分より弱くてかわいそうな生き物に同情してあげてるオレ」という自己陶酔を感じます。
川端康成の作品に関しては、どんなに読んでもただただ虚飾を感じます。
確かに文章は美しいのでしょうが、美しいが何が言いたいのか分かりづらい文章の羅列に、
現代で言うところの「察してちゃん」めいた鬱陶しさもあり、
己の腹を自ら掻っ捌いて中身をもさらけ出すような覚悟も気概も感じません。
時代背景もあるのでしょうが、彼の美しい文体で飾り立てられているのは体のいい女性軽視で、
これも私から見れば単なる自己陶酔です。
彼らの自己陶酔には、自分より社会的にも体力的にも弱い存在が必要不可欠でしょう。
彼らの同情の対象である人々は確かに可哀想な存在です。
しかし、彼らの書く文章から放たれるそれらの同情や自己陶酔の匂いは、まるで安っぽい香水の放つ不快な甘い香りのようで、
私には不愉快で仕方ありません。
「じゃあ読まなければいいじゃないか」という声も聞こえてきそうですね。
でも、読まずに文句を言うのは私の流儀に反するのです。
実際に、何作か読んで考えが変わることもあります。
その上で、この2名に関しては何年たっても「好きじゃない」、「好きになれそうにない」という考えは変わりませんでした。

それでも、永井荷風には感謝せざるを得ません。
「収集している」と言うのは大袈裟すぎるほどの量しかありませんが、
古書を少しずつ買い集め、読み進めていて感じるのは、明治時代以前の文章の難しさです。
現代人が使用しないような慣用句や比喩が多く、
書いてある内容を理解するためには、当時の流行語や古典の理解が必要な文章が多いです。
大正時代くらいの文章で、やっとその難しさが少々解消されます。
つまり、永井荷風の書いた文章に多少の自己陶酔が交じっていたとしても、
消えゆく江戸や明治の文化を書き残したことは、私にとっては大変意味のある事なのです。
私にも理解できる言葉や文脈で、今では触れる事すら叶わない江戸や明治の文化を理解できる。
これは私にとっては大変ありがたいことで、嫌悪感を抱きながらもつい尊敬してしまう一因です。
いつか川端康成にも感謝する日が来るのかもしれませんが、そんな日は来ないで欲しいような気もします。

さて、そんな永井荷風のエピソードでもお馴染みの吉原遊郭ですが、
今年1月から放送開始の大河ドラマ『べらぼう』も、吉原遊廓が舞台となっています。
江戸時代の出版人、蔦屋重三郎を主人公としたこのドラマ、放送を数回見ただけで時代考証に感心しました。
江戸時代中期は比較的資料の多い時代とは言え、
ここまで時代考察がきちんと行われた大河ドラマは珍しいのではないでしょうか。
正直、私は今までの大河ドラマには全く興味がありませんでした。
というか、時代劇に描かれがちな、
「現代の価値観にそって練られた虚構の歴史ドラマ」が嘘くさく感じてしまい、あまり見る気になれなかったんです。
ドラマはフィクションなので嘘なのは良いのですが、嘘くさい嘘をエンタメ消費できるほど素直な性格でないのです。
時に生きづらいこともありますが、自分は自分なので仕方ありません。

しかし、『べらぼう』のニュースを度々見かけるようになり、
むくむくと「現地に行って今の吉原を見ておきたい」という気持ちが沸き上がりました。
どうにも気持ちが落ち着かなくなってきたので、現地に赴く事にしたのですが、
女一人で行くのも気が引けたので、夫に同行を頼み、現在の吉原を見学しに行きました。
(青鞜の尾竹紅吉さんは勇気のある人だったんだなぁ…)
現地の様子についてはネットにいくらでも記事があるので、今更書くほどでもないかと思っていたのですが、
せっかくなので、現在の様子や所感など、記録がてら少し書いてみようと思います。

説明するまでもありませんが、「吉原遊郭」だった場所は現在もソープ店が立ち並ぶエリアです。
周辺はまぁまぁ普通の住宅街。
子供向けの遊具が並ぶ公園の道を挟んで向かい側に、ソープ店がででんと鎮座するような感じです。
最寄り駅は三ノ輪駅です。
すぐそばのレトロな商店街で売ってる紅しょうが天も有名ですが、正直に言えば1度食べれば十分、と感じるようなお味です。
素朴で懐かしくはありますが。
駅前にドトールがあったので、帰りに休憩しようと行ってみたのですが、
会計前に席を確保してはならぬ、という謎のローカルルールがあり、少々戸惑いました。
都内のそこそこ混雑するコーヒーチェーンでは、先に席の確保をアナウンスされる事が多かったので。
店内はパーテーションで区切られた1人席が圧倒的に多く、利用者がほぼ男性だったのも印象的でした。
ソープ店利用者が時間をつぶすのにちょうどいいのでしょうか。

それ以外は特筆すべき異様な点のない三ノ輪駅前を通り過ぎ、
まずは浄閑寺で「新吉原総霊塔」に手を合わせて見学スタートです。
線香は受付で100円で購入できました。


着物を着て行ってしまったので、受付の男性に晴れ着だと勘違いされてしまったようで、
「持ってもらいなよ、火の粉が飛んで晴れ着に穴があいちゃうからね」と、同行してくれた夫にお線香を渡してくれました。
いえこれは私の普段着で…などと言い出すとまた面倒なので、素直にご好意として受け取りました。
下町的な優しさです。最近こんな感じの方もあまり見かけなくなったので、ちょっと嬉しくなりました。
以前、年上の友人から「さとちゃんには下町情緒があるわね」と言われたことがあり、
その時は意味が分からなかったのですが、
このような方と接すると、何となく意味が分かるような気がします。

余談ですが、この後に中国のSNSで、千束四丁目に住んだ経験のある方が、
地元のご高齢の方が結成されている自衛団が夜間に見回りをしてくれていた、と言っていました。
ご高齢の方々は外国人である自分にも大変優しく、良い思い出のある場所だとも。
その方はこの付近を「家賃が安い、近所にエッチなお店があるだけの普通の場所だ」と言っていたのですが、
果たして近所にエッチなお店があるのは普通なのでしょうか、感じ方は人それぞれですね。

浄閑寺はさっぱりとした感じのお寺です。
お寺にさっぱりも何もないかもしれませんが、ものものしい雰囲気も重苦しい雰囲気もありません。
門をくぐり、お墓とお墓の隙間にある細道を進むと、観音様が鎮座する新吉原総霊塔があります。
総霊塔は側面に格子のついた小窓のようなものがあるのですが、ぎっちり積み上げられた骨壺が見えます。
浄閑寺のホームページによれば、その数は2万5千にものぼるそうです。
その向かいには永井荷風の碑があります。
墓地につながる門のすぐそばには若紫と書かれた古い墓石があります。
吉原遊郭の遊女の死や埋葬については、色々と無残な話があります。
このように墓があるのは珍しいそうです。

何かをする前に先にお参りを済ませるなんて大変日本人的です。
その後も日本人的に順番を守り(?)、まずは見返り柳へ行きました。

現在の見返り柳は何回か植え替えられたものであり、かなり若い木に見えました。
すぐそばにガソリンスタンドもありますし、見通しが悪くなれば事故のもとですので、
大きく成長しないように手入れされているのかもしれません。
吉原五十間の名残は、現在はカーブした道の形くらいでしか確認できません。

吉原大門は今はもう姿を消していて、現在は「いかにも」と言う感じの太い筆字のフォントで、
でかでかと「吉原大門」と書かれた街灯が立っているのみです。
浮世絵で見るような立派な大門はもちろんありません。
でも、大正時代くらいの写真を見てみると、洋風の装飾のアーチになっていますし、
時代によって変わっていくのは自然の流れですね。

吉原大門からメインストリートは意外に車の交通量が多いです。
午後3時くらいから特に車が増えるのは、ソープ店の顧客が車で来店するからでしょう。
従業員の女性の出勤もこのくらいの時間から増えるので、
もし観光に行くのであればお昼くらいを目安にするのがおすすめです。

「もし観光に行くのなら」と書いたのは、たどり着いた吉原神社が予想以上に混んでいたからです。
ドラマで語りとして登場した綾瀬はるかちゃんが、九郎助稲荷の役で少しだけ登場しましたが、
女郎さんと稲荷が合体したような雰囲気のスタイリングが大変かわいらしかったのですが、
その九郎助稲荷がここ吉原神社に合祀されているので、今後も観光客が増えるのではないでしょうか。
大河ドラマののぼりも立っており、江戸っ子らしい商売っ気も感じます。


吉原神社には、吉原遊郭にあった5つの稲荷神社と、遊廓に隣接していた吉原弁財天、
合計6つの神社が合祀されています。
千束三丁目にある花園公園の吉原弁財天は、跡地という扱いなのでしょうか。


こちらには、大正時代の関東大震災で犠牲になった遊女たちを供養するために建てられた観音像がありました。
大正時代の関東大震災の際に500人の遊女が織り重なり亡くなった、と言われる弁天池は、
埋め立てなどもあり、今はかなり小さくなって残っています。
こちらにも弁財天の祠がありますが、正式には神社ではないようです。

お歯黒どぶの跡もまだ少々残っていたので見学してきました。
街の中に普通の石垣のように存在しているので、知らなければスルーしてしまう存在感の薄さです。
何かで「お歯黒どぶは大体5メートルほど」と読んだことがあったのですが、
私がこの時立っていた道はおそらくもともとお歯黒どぶだったのでしょうね。

その他には特に見学するほどのトピックはありませんが、
通りの名前に「揚屋通り」とか、遊郭にちなんだ名前が少々残っているのと、
今では全国チェーン化しているソープで、江戸時代から続く老舗の角海老本店も、
なんとなく江戸時代っぽい外装で営業していたり、カフヱー建築も少々残っていたりします。


以前来たのは何年も前ですが、やはり自分の足で歩いてみると感じ方が変わります。
この後しっかり熱を出しましたが、見学に来てみてよかったです。
うろうろしていたのが午後2時から3時くらいの時間帯だったのですが、
夕方以降は街のギラ付き方が変わるので、ほっつき歩くのはおすすめいたしません。
また、観光客が急に増えたからか、店先に立っている従業員の男性も、
心なしかピリついているように感じました。
ちなみに、樋口一葉記念館は長期休館中との事でした。

最近、大河ドラマの影響で、中国のSNSで吉原遊郭の説明を求められることが多く、
個人的にできる範囲内で解説を試みたり、
昨年、キャッチコピーの軽薄さがきっかけで大炎上した『大吉原展』も見学してみたりと、
吉原遊郭に対して元々抱いていた複雑な感情を刺激される機会が大変多かったです。
中国のSNSでの解説では、私は吉原遊郭で行われたのは明確な人権侵害だと解説していますが、
現代女性の売春の問題と混同されてしまい「悲しい」などの感情論にすり替えてしまう人が、
大変多い印象を受けました。
これはもしかしたら、日本でも同じなのかもしれません。

江戸時代と現代の違いで何より大きいのは、職業選択の自由の有無でしょう。
江戸時代は女郎だけでなく普通の人でも、職業選択の自由が無かった時代ですが、
人身売買による不当な借金、逃亡が困難な環境での組織的な強制売春など、
どこからどう見ても、普通の人よりひどい環境に置かれたいたことは一目瞭然です。
現在も吉原がソープ街なのは事実で、そこで働く女性たちがいることも事実ではあります。
しかし、性産業従事者を選択する女性がいることの根本的な原因と、
江戸時代の吉原遊郭で行われた人権侵害にはあまり接点が無いように私は思います。
性産業従事者にも職業選択の自由があり、他にも選択肢がある上でその職業を選択したことを、
問題と受け取るか、自由の行使と受け取るかの違いでしょう。
性産業従事者の中には「好きでこんな仕事をしてるわけないじゃん」と言う人もいらっしゃるのかもしれません。
しかし、その人が不自由な選択をせざるを得なかった要因はそれぞれ違うはずで、違う対策やケアが必要なのではないでしょうか。
もちろん、私は彼女たち全員と対話したわけではありませんので、ある種の憶測です。
しかし実際に、私の友人の一人は「ソープで働いてなかったら死んでた」とまで言っている人もいました。
職業選択の自由を奪った上で逃亡が困難な環境に置き、不当な借金を背負わせた上で組織的に売春に加担した吉原遊郭と現代は、
やはりそもそも問題の根幹が違うと私は思っています。

「人の不幸は蜜の味」とよく言います。
何百年も前の過去の不幸だったとしても、蜜の味は風化しません。
それどころか、時の洗礼を浴びてさらに熟成されるのかもしれません。
甘い蜜を吸いたいと思うのは人の本能でしょう。
不幸にべっとりとまとわりつく「ドラマ」は、歌舞伎や人形浄瑠璃、現代ならドラマに映画に漫画やアニメ、
様々な娯楽に姿を変えて私たちの日常に楽しみをもたらしてくれました。
歌舞伎などには「畜生道を戒めている」なんて端書が付く場合もありますが、
「戒め」と言いながらしっかりエンタメに仕上げているあたり、
不幸をネタに娯楽を作っているというのは事実だと私は思います。
しかし、そのようなエンタメが広く色々な人にある特定の事象やできごとを広めてきたことも事実です。
これからの時代は、エンタメはその役目を担いながらも、
人権侵害を美化しない・加担しない役目も負っていくのかもしれません。

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