こんにちは、宮寺理美です。
先日、2023年9月1日で、大正時代の関東大震災から100年の月日が経ちました。
内閣府や国会図書館、気象庁などが特設サイトを設置し、
当時の被害状況を伝えて注意喚起をしています。
令和の現代では、今後30年以内に首都直下型地震が起こる確率は60~70%だと言われています。
防災意識を高めるのは本当に大切な事ですね。
その時に咄嗟に身を守れるかどうかは、
日常からの鍛錬や備えにかかっていると言っても過言ではありません。
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私はアンティーク着物の愛好家です。
そして、それと同時に古書の蒐集も趣味にしております。
(コレクターを自称するほどではないのが現状ですが。)
古いものを蒐集していると、戦争や震災などの「破壊」と向き合う機会は自然と多くなります。
大正時代の震災の状況は、古物の中でもよく見かけます。
フリマサイトなどで大量の絵葉書を売っている人からまとめて購入すると、
震災の被害状況の絵葉書がよく混ざっています。
この枚数が意外なほど多いです。
当時の情報伝達ツールは現代よりも数が限られています。
絵葉書もその役割を果たしていたのでしょう。
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歴史を少々調べてみると、
関東大震災は復興までの期間が異様に早いのも特徴だと思います。
それもそのはずで、震災前までの日本は好景気だったんですよね。
大正時代のバブルは「大戦景気」とも呼ばれています。
第一次世界大戦の参戦国ながら、日本は戦地から遠かったので、商品輸出が増加しました。
軍需品の輸出が急増したので、日本は空前の好景気だったんです。
この点はアメリカも同様です。
1920年代はファッション史の視点で見ても黄金期なのですが、
このような軍需品による好景気と、ファッションの隆盛は無関係ではありません。
日本では特に、都市部の生活状況に多大な影響を及ぼしています。
話が少し脇道に逸れますが、
現代日本では、大正時代の華やかな文化はもてはやされても、
こういった戦争に関連する事には、スポットが当たりにくいです。
個人的に、戦争=悪という認識があまりにも強いのも要因のひとつだと感じます。
戦争についての報道は、特に心情や情緒を強調して報じられる事が多いです。
もちろん、私自身も戦争には色々な感情があります。
子供のころから戦争経験者の祖母の話をよく聞いていましたから。
しかし、事実を事実として記す事や、
その認知の範囲にまで、このような報道側・情報媒体側の姿勢が影響するのは、
あまりよろしい事ではないと私は思います。
さて、そんな「大戦景気」の影響もあり、
関東大震災からの復興と共に、新しい文化も誕生します。
関東大震災後の復興のシンボルとしてよく紹介されるのは、百貨店(デパートメントストア)です。
1905年1月1日、全国紙で三越呉服店による「デパートメントストア宣言」が掲載されました。
1905年は明治38年。日露戦争でドンパチしてる真っ最中です。
現在の三越は、こうして大々的に宣言をし、呉服店から百貨店に舵を切りました。
これにならい、高島屋や松坂田、大松なども新装開店し、百貨店の時代がやってきます。
初期の百貨店は舶来品(輸入品)が主要商品の高級店でしたが、
関東大震災後は昭和恐慌の影響もあり、百貨店では徐々に大衆化が進みます。
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関東大震災と特に縁が深い百貨店は、コレド日本橋の場所にあった白木屋でしょう。
東急百貨店日本橋店の前身です。
白木屋は関西地区でも展開しており、日本橋には本店がありました。
本店は関東大震災で全壊します。
しかし、被災直後から出張店を営業したり、ビルの一角を借りて日用品の販売を行ったそうです。
商魂たくましいとはまさにこの事!ピンチはチャンスですね。
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また、これも完全なる余談ですが、区画整備の遅延などが理由で本店の施工が遅れ、
やっと完成した本店は、翌年に火事になってしまいます。
日本初の高層火災として有名な「白木屋火災」です。
これがきっかけで女性に下着が普及したという都市伝説もありますが、
こちらに関しては、火災から数年経過した後に商品PRや火災への注意喚起で発生した話のようですね。
実際に裾の乱れを気にして亡くなった女性がいたという大変痛ましい話もありますが、
個人的には、後世に流布された言説とは、だいぶニュアンスが異なる気がします。
さて、関東大震災後には、
「復旧」ではなく「復興」を目指した国家プロジェクトが始動しました。
震災発生時には前任の内閣総理大臣が急逝しており、
内閣総理大臣が不在というなかなかの状況でした。
早急な復興を目指すべく、翌日に山本権兵衛内閣が発足します。
山本権兵衛氏は「日本海軍の父」と呼ばれる人物で、
特に西郷隆盛や勝海舟に影響を受け、内閣総理大臣の前には海軍大臣も経験しています。
日露戦争の勝利は山本権兵衛氏の存在なくしては成しえなかった、
と言われるほどの功績を納めたそうです。
また、海軍大臣の任期中には数々の改革を成し遂げた人物です。
奥様は遊郭に売られた漁村の娘さんで、
遊郭から救うために2人で脱走したエピソードなんかもあります。
目的をなんとしてでも成し遂げるパワーを感じるエピソードですよね…
(でも後に金で解決したみたいです。)
ちなみにこちらは、10人の内閣総理大臣の本妻・愛妾のエピソードをまとめた
「総理の女」という本に登場するエピソードです。
すごく面白かったのでオススメです。
山本権兵衛内閣の発足と同日、復興事業を担う「帝都復興院」の設立が提案され、
総裁には、数か月前まで東京市長であった内務大臣の後藤新平が就任します。
しかし、この後起こった「虎の門事件」の責任を追及され、山本権兵衛内閣は総辞職。
そして、帝都復興院も大正13年2月に廃止されます。
これにより、政府が復興を主導するという形式が取れなくなってしまい、
結局、計画実行は内務省に創設された「復興局」が担うことになりました。
現代人の私は当時の役職者たちの引継ぎについ思いを馳せてしまいます。
引継ぎ、大変だっただろうなぁ……
帝都東京の復興には、その前からあった都市改革が基盤となったそうです。
区画整理・幹線道路の整備や、橋の整備、
また、水道管、ガス管、電線、電話線などのライフラインの整備などなど。
こんな計画だったので、当初このプロジェクトのリーダーだった後藤新平は、
被災した土地を全部買い上げる!
という明らかに無茶なやばい計画を立てていたほどです。(え?金銭感覚、大丈夫?)
もちろん、この計画は実現していません。
河川や運河の整備も実施されました。
有名な浅草の金のウ…ではなくビールの泡が見える橋も震災で崩落してしまったので、
鉄製の橋が新しく造られています。
東京都は全体で100を超える橋が架けられたそうです。
東京の三大公園と呼ばれる、
隅田公園、浜町公園、錦糸公園も、当時は「震災復興公園」と呼ばれていました。
そして、昭和4年(1929年)10月には、日比谷公園で「帝都復興展覧会」が開催されました。
色々な国から助けていただいた(金銭的に)ので、お披露目や感謝を伝える意図もあったそうです。
このような復興の色々は、両国国技館からほど近くにある、
東京都復興記念館で知ることができます。
(そこまで生々しい展示品はありませんが、視覚情報から影響を受けやすい方はご注意ください。)
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震災復興の最中、さきほど登場した百貨店の様子も、
各百貨店のホームページなどから伺えます。
昭和2(1927)年9月には、日本橋三越6階の「三越ホール」で、
日本初のファッションショーが開催されました。
著名な女優がモデルとなり、一般公募の図案から選ばれた着物を着て舞を披露するなど、
なんとも華やかなショーが開催されました。
三越ホールは演劇や講演会などに利用され、文化振興に大きく貢献しました。
現在、三越ホールは三越劇場と名前を変え、
舞台の公演やクラシックコンサートなどが行われています。
一方、昭和6(1931)年に開店した松屋浅草には、
小さな動物園、ボウリング、野球遊び、射撃場など各種の遊戯施設がありました。
この時代の百貨店には文化施設のような性質があったことも伺えます。
被災地であるにも関わらず、経済的にも精神的にも東京は元気ですね。
【参考】
高島屋の歴史
国立国会図書館 百貨店ある記~買うときめき、めぐる楽しみ~
最後に、私の愛読書「考現学入門」の著者である、今和次郎氏を紹介したいです。
人の手も借りながら東京の街を観察し、統計を出した民俗学者です。
今和次郎氏の残したユニークなスケッチは大変見ごたえがあります。
氏は関東大震災後のバラックで人々の生活を書き留めています。
当時のバラックは狭小地に大勢の人が暮らしており、
大変治安が悪かったというエピソードも残っていますが、
そんな危険はものともしない精神は尊敬に値します。
氏が残した人々の生活の記録には一見の価値がありますので、
ご興味のある方はぜひ読んでみてください。
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当時の「帝都東京」は、軍需品による好景気のパワーで復興を遂げました。
しかし、現代の日本が経済的に元気があるとは言い難い状況です。
震災に対する備えももちろんしなければいけませんが、
2011年の東日本大震災からも復興ができたという実感がない中、
次に来るかもしれない震災に備えるのは、大変な不安でもあります。
大正時代の関東大震災の資料を見たり読んだりするたび、
復興と復旧は違うのだと考えてさせられます。
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