恐怖の形と民族性

日々のあれこれ



こんにちは、宮寺理美です。
私の住んでいる東京では再び新型コロナウイルスの感染者が増加傾向です。
元々、私は小児喘息を患った事があり、
風邪を引いて回復するたびに何週間も咳に苦しむ事がしばしば。
そのため、まだしばらくマスク生活をする必要があります。
しかし、「真夏のマスク生活から解放されたい」という気持ちも
痛いほど理解できるので、
一人で粛々と、修行僧のような心持ちでいようと思います。

とはいえ、絶対にマスクをしなくちゃ!という雰囲気が軽減されたのは喜ばしいことです。
今年の夏は規制緩和ムードと相まって、
美術館や博物館も賑わいを取り戻しつつあるなぁと感じました。

そういえば、この夏は大変久しぶりに文化服装学院博物館にも行きました。

さて、今年の夏はどうしても行きたい企画展がありました。
JR東京駅 東京ステーションギャラリーで開催されていた企画展
『甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性』です。
甲斐荘楠音は「すごく有名」という感じではないので、
ご存じない方もいらっしゃるかもしれません。
まず、名前も大変読みづらいので覚えにくいです。
かいのしょう ただおと と読みます。
以下、企画展の概要分を一部抜粋させていただきます。

大正から昭和にかけて京都で活躍した画家、甲斐荘(甲斐庄)楠音(1894~1978)。
国画創作協会で彼が発表した作品は美醜相半ばする人間の生々しさを描いて注目を集めましたが、
やがて映画界へ転身し、風俗考証等でも活躍しました。
本展では、彼が携わった時代劇衣裳が東映京都撮影所で近年再発見されたことを受け、
映画人・演劇人としての側面を含めた彼の全体像をご覧いただきます。
スクラップブック、写生帖、絵画、写真、映像、映画衣裳、ポスターなど、
甲斐荘に関する資料のすべてを等しく展示し、その「越境性」と「多面性」を紹介します。


『甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性』より抜粋



甲斐荘楠音の作品が好きだと言うと、
私の友人たちは大体「知らない人だ」と言います。
私は竹久夢二や高畠華宵、蕗谷虹児など、
大正時代のイラストレーターも好きなので、
そのような人を想像する友人も少なくないです。
しかし、甲斐荘楠音の作品を見ると、
そんな友人たちは大体が驚き、「恐い!」と言います。
このような反応をされるたび、企画展の概要で「生々しい」と表現された甲斐荘楠音の作風は、
多くの現代日本人にとって、恐怖を感じさせる表現なのだな、と感じます。

友人にチケットを見せたら「呪われそう」って言われてしまいました。しくしく

東京ステーションギャラリーは企画展が毎回おもしろいテーマで、アクセス最高です。

甲斐荘楠音の作品を見るたびに、私は谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出します。
漆や蒔絵、白塗りメイクで着物姿の、異様な表情の女性たち。
描かれたのは確かに近代化の時代の日本ですが、
絵画に登場する人やものは、日本に電気が無かった時代の産物です。
甲斐荘楠音の作品に描かれる暗さ、そして谷崎純一郎が『陰翳礼讃』で書いた内容には、
共通点があると私は感じるのです。

美術館ではポストカードを購入することが多いのですが、友人に送ってもびっくりされそうなので、今回は栞にしました。


現在は改装中のため閉館していますが、
以前遊びに行った江戸東京博物館の一角には、
「あかり体験コーナー」なる一角がありました。
江戸の行灯、明治の石油ランプ、昭和初期の電灯を体験できるコーナーです。
しかし、暗い。とにかく暗いんです。
「あかり体験」ではなく「闇体験」ではないかと思うほどです。
行灯の時代の一角は、現代人の私の目では物を認識するのが難しいくらい暗く、
石油ランプの一角でやっと少し安堵しました。それでもかなり暗いですが。
私はやはり文明的な時代の人間なんだなぁと実感した次第です。

着物をはじめとする、所謂「日本らしい」服飾文化や生活習慣は、
このような暗さの中から生まれたと言ってもよいと私は思います。
甲斐荘楠音や谷崎純一郎の生きた時代は、このような闇からの脱却の時代でもあり、
新しい文化や生活習慣、文明的な品物が瀑布のように流れ込んだ時代です。
彼らはそんな瀑布の中で、失われつつある闇、
そして闇から生まれる美しさに思いを馳せたのかもしれません。

2022年に訪れた熱海の凌雲閣。近代になってからの建築なので、採光に気を遣った設計です。

先に登場した江戸東京博物館では、
私は何も見えない行灯のコーナーで、
「ここで何かがカサッ…と動いたら怖いだろうな」と思いました。
暗さは多くの現代人にとって恐怖ですよね。私も恐いです。


江戸時代の中期以前に描かれた浮世絵などでは、
光や闇の表現はあまり登場しないように思います。
それが恐怖のコンテクストで描かれていても、です。
そもそも、光や闇を描くという概念は西洋で発達した概念でもあるようなので、
西洋文化から影響を受け始めた時代から増え始めるのは自然な事かもしれません。
明暗を意識して描かれる浮世絵が増加するのは1840年くらいだなぁ
と、浮世絵を鑑賞するたびに感じます。
もちろん、素人の私の意見で、あくまで感覚なので、
きちんと考察したら別の答えになる可能性もありますが。

浮世絵のコンテクストでは、
闇が重点ではなく、モチーフが重点なんです。
浮世絵の世界では、闇の先に何があるのかの「答え」が描かれています。

今回の記事の書き出しにも関連しますが、
新型コロナウイルスの感染が拡大し始めたころも、
もう少し遡れば、3.11後の福島原子力発電所の事故以降も、
正体の分からないモノへの恐怖心は、
社会や人々をいとも簡単に変えてしまうことを実感した方も多いことと思います。
そして、人間は色々なものごとに答えや理由を見出します。
現代ではそれが科学的根拠であったり、社会性や公共性であったりします。
しかし、闇の時代にはそのようなものはありませんでした。
答えや理由の「出し方」には、属性や地域性によって異なる点が多く、
言い方に悩むところですが、誤解を恐れずに言えば大変興味深いです。

「答えの出し方」に地域や属性による違いがあることに気が付いたのは、
ホラー映画を鑑賞していた時です。
(実は私は怪談話やオカルト話が大好きなんです。笑)
数年前からのお気に入りは、
『Saw』で有名なジェームズ・ワン監督作品の『死霊館』シリーズです。
シリーズ中には他の監督の作品も混じっているのですが、
ジェームズ・ワン監督がピカイチで好きです。

ジェームズ・ワン監督作品は、恐怖の描き方が大変美しいです。
映画の中では、日本では「呪物」と称されるようなもの、
例えば勝手に動いたり、ついてきたりするモノが登場するのですが、
実際に動いているところは描写されません。
ただそこに存在しないはずのものが存在する恐怖のシーンが登場します。
余談ですが、ホラー映画には大きな音で見ている人を「ビビらせる」演出もよく使用されますが、
私はこういう演出はあまり好きではありません。

ところがです。
そんな不気味な演出も、終盤になると、怖さがトーンダウンしてしまいます。
それはこの手の海外の映画のオチが「悪魔祓い」だからです。
具体性のない恐ろしい事象だけが描かれる不気味な展開の末、
「これは悪魔の仕業だったのだ!」という答えが登場します。

私は仏教国の日本で生まれ育ったので、悪魔の恐ろしさにはぴんと来ません。
悪魔祓いのシーンは、大体が聖書を読み上げて聖水を振りかけると、
悪魔が乗り移っている人間がはちゃめちゃな苦しみ方をしたり、
若い女性が老人のような声で叫んだりします。
そして、悪魔祓いは悪魔の名前を暴くという行為で完結します。


しかし、これに関しても、
私は何故名前を暴く行為が大事なのか、ぴんと来ません。
名前?あれだけ散々人間を怖がらせておいて??と思ってしまうんですよね。
キリスト教的な教義の事は勉強すれば、机上の知識として悪魔祓いの意味は理解できます。
しかし、それは「そこにないはずのものがある」「呪われた何かに狙われている」
などの具体的な恐怖とは程遠いです。
西洋のホラー映画が描く恐怖は、そういう意味では大変に西洋的です。
その発端はキリスト教的な価値観であり、
このような価値観が絶対的であると思うと示唆に富んでいて面白くはありますが。

近年、地上波のテレビではオカルト番組がずいぶん少なくなりました。
これは私にとっては大変寂しいことですが、
一方で怪談会と呼ばれるようなイベントや、怪談を取り扱うYoutubeチャンネルなどもあります。
恐怖はやはりメインストリームではなく、サブカルチャーと相性が良いことが伺えます。
恐怖のコンテクストは民族性に富んでいます。
特に日本のように、生活習慣に宗教(仏教だけでなく土着の信仰も)が染みついている国では、
その傾向はとても顕著なのではないでしょうか。

以前、自称無宗教のヨーロッパ圏出身の友人と
宗教の話になった時もこんなことを言ったのですが、
無宗教でも「オーマイゴッッド」とか「ゴッドブレスユー」とか
日本人の場合は「バチが当たる」とか言うのって、
個人が進行している宗教と染みついている宗教は違う、
という事なんだと思うのです。


甲斐荘楠音が描く女性の白塗りメイクは、
古くは平安時代に生まれたともいわれています。
当時の建物は採光が悪く、
お肌をきれいに見せるには白く塗るのが手っ取り早かったという事だそうです。
一方、ヴェルサイユ宮殿で舞踏会を行う中世ヨーロッパの貴族たちも白塗りメイクをしています。
白塗りメイクは現代人の目から見ると異様ですが、
それは現代社会が、物理的に明るくなったからかもしれません。



科学や技術が発達して、照明も発達した結果、
暴かれたのは闇の先にあった「何か」だけではないのかもしれません。

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