埼玉県行田市で学ぶ足袋と近代史の関係

和服


10年ほど前でしょうか。
当時、私はよく柄物の足袋を履いていました。
アンティーク着物の大きな柄に、小さな水玉模様の柄足袋を履くのが好きでした。
主張の強いアンティーク着物には、確かにそういう「パンチ力のある」ものを合わせた方が可愛いこともあります。
そして、白い足袋はすぐに汚れてしまい、手洗いが必要になります。
柄足袋なら汚れも目立ちません。


その日もそんな風に柄物の足袋を履いて、ふと駅のお手洗いに立ち寄りました。
お手洗いでお化粧を直していたのは、白髪のショートカットに紬の小紋をお召しの素敵な女性でした。
本当に素敵で思わず見とれてしまった時、その女性が思いがけぬ笑顔でこう言いました。
「アンティーク着物!?ステキね!」
素敵な人に褒めていただいて嬉しいのと同時に恥ずかしくて、
お礼を言いながらちょっとモジモジしたその時です。
「でも、足袋は白の方がいいわね。羽織に白いお花も描いてあるし、その方が粋よ!」
えー!私はこのほうが可愛いと思ってるのに!
ガーンと雷に打たれたような気持になりました。
でも、すぐそばにあったお手洗いの大きな鏡で見てみたら、
確かに白い足袋を合わせた方が素敵な気がしたんです。
「本当だ、確かに白い足袋の方が素敵かもしれないです!」
女性はニッコリ笑って言いました。
「私は福助足袋が1番好きなのよ、少し高いけど。
ポリエステルの足袋はツルツル滑りますからね。よかったら試してごらんになって!」
「福助足袋」が、私の故郷の埼玉県のブランドだということを、私は随分後で知りました。

その後はなんだかんだずっと白足袋です。 photographerだいとさん



先日、香港の友人と一緒に埼玉県行田市に行きました。
着物に詳しくない方や埼玉に詳しくない方はあまりご存じないかもしれないですが、
行田市は日本有数の足袋の産地なんです。
真夏に行ってしまったので街歩きはあまりできませんでした。
行田市は暑さ日本一と名高い(?)埼玉県熊谷市のお隣です。
映画化もされた『のぼうの城』で一躍有名になった忍城も行田市にあります。
小田原征伐の際、小田原城が落城したとき、忍城はまだ落城してなかった、というエピソードを元にした物語です。
「日本三大水攻め」等とも言われます。

歴史研究家で旅行作家でもある友人のキリちゃん。2人とも大変元気そうですが、気温は38度です。


埼玉県民に言わせると「埼玉は何もないのがいいところ」なのですが、
行田市にはお城もあるし古墳もあるし、3000年前の蓮の花が突然開花するし、
大変ロマンがあふれる土地なのではないかと個人的には思っております。
その忍城の博物館にも立ち寄ったのですが、足袋にまつわる展示品がとても充実しておりました。
以前、お手洗いで出会ったお姉さまに勧められた「福助足袋」を、今の私は愛用しています。
なので、大変興味深く拝見しました。


足袋って江戸時代くらいのイメージをお持ちの方もいるかもしれませんが、
江戸時代の庶民たちは基本は裸足です。
当時の足袋は、コハゼと呼ばれる金具の部分も全部手作り。つまり高級品でした。
実は足袋の普及って、日本の近代化と関係が深いんです。

明治時代=文明開化
これは多くの人が認識している点だと思います。
明治政府は、ほんの数か月前まで「江戸の庶民」だった人々を「近代国家の人民」に変身させるべく策を練るのですが、もう一つの闘いがありました。
それは「疫病との闘い」です。
特にコレラとの闘いはドラマ『仁~JIN~』でも描かれましたね。
文明開化政策の結果、コレラなどの疫病が海外から流入する事は防げませんでした。
これに加え、日本の都市部の衛生環境はまだまだ劣悪です。
当時のコレラはかなり致死率が高く、1899年(明治33年)に神戸・大阪・浜松などで45人の感染者がでて、40人が死亡したそうです。

作業工程と当時の女工さんの再現

こうした情勢の中、1901年(明治34年)、
警視庁はペスト予防のため屋内を除き裸足で歩行することを禁止します。(※庁令第41号)
表向きは衛生が理由でしょうが、早く西欧列強の仲間入りをしたかった明治政府としては、
裸足は「野蛮」な「未開人」の文化なので、禁じたかったというのが本音でしょう。
靴の普及も始まりましたが、明治時代の洋装はだいぶ高価です。
まだまだ多くの人が和服で生活していたのが実情でしょう。
明治時代後期頃にはコール天(コーデュロイ)やネル裏の足袋が登場しますが、
大正時代くらいにはコール天の足袋はビロードの足袋にとって代わられます。

山盛りの別珍(ビロード)足袋も展示されていました。


埼玉県行田市の足袋は昭和初期、需要の最盛期を迎えます。
全国の約8割のシェア率で、ピーク時には年間約8000万足を製造していたそうです。
大正時代以降の行田市はたいそう栄えたそうで、駅や銀行の様子も展示されていました。


「蒲団」の田山花袋は、明治42年に埼玉県行田市を舞台に、
「田舎教師」という小説を書いたそうですが、
大正時代の頃にはそんなに田舎ではなかったのかもしれませんね。
さっそく文庫本を購入したので、ゆっくり読んでみようと思います。



いつか、住んでいる街の呉服屋さんの女将さんに、こんなことを言われたことがあります。
「今はいろんな色柄があるけど、私は半襟と足袋は白がいいわね。
だって豊かじゃない?」
当時の私は「だって豊かじゃない?」の意味がきちんと分かっていなかったように思います。
当たり前に足袋を履くこと。
それは確かに豊かさの象徴です。
現代の日本では、白い足袋には「あなたの家を汚しません」という意味があると教える人もいます。
でも、よその家を汚さないために足袋を履く気遣いも、
土間がなくなり始めた大正時代以降の気遣いなのかもしれません。




Follow me!

コメント

PAGE TOP
error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました