耳のそばでさくさくと軽やかな音がし、自分の黒い髪がはらはらと落ちていくのが視界の端に見えた。
「本当にいいんですか?」
と何度か聞いたのち、美容師の山田ちゃんは私の髪に鋏を入れた。
私の髪質はちょっと難しいらしい。カラーリングもパーマも思うようにいかない直毛だ。前髪を厚めに切ってしまうと、ノーセットのままだとまるで呪いの日本人形だ。
でも、いつも髪を切ってくれている山田ちゃんは、そんな私の髪を「これは個性、唯一無二の髪ですよ」といつも褒めてくれる。
確かに、似合う髪型は本当に似合う。前髪を作らなければ基本的にノーセットで大丈夫だ。
なにより自分で気に入っているのは、束髪やヘアアイロンでウェーブをつけた耳隠しなど、明治大正期の髪形やまとめ髪にすると大変しっくりくるところだ。
しかし、10年以上もロングヘアを続けているうちにすっかり飽きてしまった。束髪やウェーブをつけた耳隠しはセットするのにも時間がかかる上に、着物を着ない日も多々ある。
元々、古着好きが高じてアンティーク着物に行きついた私にとって、黒く重みのあるロングヘアが、手持ちの古着ワンピースに合わせにくいのも悩みの種だった。
髪を切ったらきっと似合うようになるのでは、と思ったのは、大正時代から昭和初期の新聞や雑誌を蒐集して、当時の女性たちのファッションを見ていたせいだった。
大正時代のファッションは時折「和洋折衷」と言われる事もあるが、基本的に和装と洋装は混ぜないし、大正時代中に洋装だった女性は本当に少ない。
大正12年(1923年)の関東大震災後の東京をスケッチして回ったのが有名な民俗学者の今和次郎氏は、大正14年(1925年)銀座で、人々のファッションを統計している。
洋装の男性の靴や襟の形なども興味深かったが、私が1番驚いたのは洋装女性の少なさだ。
その数はなんと100人中1人とごく少数で、これについて近和次郎は『統計に出たこの数字に、きっとだれでも疑いをもたれることと思います』と述べている。
大正時代中に洋装のモダンガールになるのは、きっと大変な勇気が必要だったのだろう。
森まゆみ氏の著書『断髪のモダンガール』に登場するのも、活動家や歌人など、苛烈な生き方を自ら選んだモーレツ女ばかりである。
しかし、彼女たちの尽力が無ければ、女は今でも青白い月のような生き方しかできなかったのかもしれない。
「どうですか?」
「うん、ばっちり!」
山田ちゃんが合わせ鏡で見せてくれた自分の後姿は、大変すっきりしていて心地よかった。
お会計を済ませて外を歩けば、心なしか足取りも軽い。
家に着いてから姿見の前でお気に入りのワンピースを着てクロッシェを被ってみると、ちょうど夫も帰宅した。
「お、さっぱりしたな。ええやん」
「手持ちの古着ワンピに合うと思って切ったら、予想通りだったわ」
ドヤりながら自分の手で触る。
美容院でトリートメントもして、切ったばかりの髪はシャラシャラと楽器のような心地よい音がした。


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ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする
七・七・七・五の音数律に従う都都逸でこんな唄が流行したのは、明治4年(1871年)の散髪脱刀令以降のこと。
一般庶民の間で断髪が流行し始めたのは、明治6年(1873年)明治天皇の断髪以降だとも言われています。
しかし、明治5年(1872年)、女性には全く別の法令が発布された事は、歴史の教科書には記載されません。
「女子断髪禁止令」と呼ばれるその法令は、女性の散髪を禁じるものでした。
もし見つかれば罰金や警察署に拘留されるという内容で、現代の軽犯罪法に似た取締法規です。
それほどまでに女性の断髪に対しては反発があったのでしょう。
「大正時代には断髪洋装のモダンガールが出現した」 ー よく見かける解説文にはこのように集約される事が多いです。
しかし、これほどまでに強い反発が、スマホやテレビが無かった時代に変化するのは、時の流れを以てしても難しかったのでしょう。
森まゆみ氏の著書『断髪のモダンガール』に登場する女性は、望月百合子、ささきふさ、謝野晶子、平塚らいてう、宇野千代などなど、世間の流れに抗うパワフルな女性ばかりです。
また、本書には断髪は「未亡人」や「間男した」などと言われるシーンが登場し、髪を切る事=女を捨てる事の記号のような扱いを受けている点も印象的です。
大正時代に耳隠しが流行したのは、断髪のように見えるし、洋装にも和装にも合うから、という理由もあったと言う人もいます。
このような当時の風潮の事を思えば、簡単に髪を切れない事は容易に想像ができ、一理ある考察だと私は思います。
髪を切るのが個人の自由である、という事が当たり前になった現代に生きる私には、このような生き方を他者から強いられることは想像できません。
当時、断髪の女性たちにとっての断髪とは、自分の生き方を選ぶという決意表明や儀式のようなものだったのかもしれません。
シャラシャラと揺れる髪の音を聞きながら、彼女たちはどんな世界を見ていたのでしょうか。


大正浪漫譚は、時を超えて紡がれる物語を毎週日曜の夜にお届けします。
また来週お会いしましょう。
宮寺理美
<出典>
今和次郎 考現学入門(1987)
森まゆみ 断髪のモダンガール(2008)
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