【大正浪漫譚・銀ブラ編】鬼の如く、恋の如く、地獄の如く

大正浪漫譚


夫と出かけると、大抵いつも鬼の行軍の如く歩く事になる。
今日もアンティーク着物で銀ブラ=銀座でブラジルコーヒーを飲み、そのまま帰るつもりだった。
しかし、夫が博品館に行きたいと言い始め、私はGINZA SIXに気になっていたコスメブランドの店舗があったのを思い出し、結局しっかり銀ブラ=銀座をブラブラした。
歩き疲れた私達はそろそろ休憩をしようと、私の当初の目的であるカフェーパウリスタのカフェオレ色の丸い庇屋根を目指した。

カフェーパウリスタは日本最古のカフェとして知られる店だ。創業は明治44年(1911年)。
扉を開くとちりりんとドアベルが鳴った。どこか懐かしい音だ。
燕のような黒白の制服を着た店員に席に案内される際、私は目ざとく店頭に置かれていた小冊子を見つけた。
キャラメル色のふかふかのソファ席に座り、『カフェーパウリスタ銀座店のご案内』と書かれたその小冊子を開くと、こんな文章が目に入った。

交詢社前にあった旧銀座パウリスタは、大正の佳き時代、文化の新風の担い手として多くの人々に愛されましたが、1923年の関東大震災で惜しくも焼失しました。
戦中・戦後を経て1970(昭和45)年に創業店から歩いて三分ほど、西洋文化の中心地である銀座にコーヒー文化の担い手として、カフェーパウリスタ銀座店が再開されました。

磨き上げられたガラスケースに鎮座していたケーキとコーヒーを注文して、店員が席を離れるとフゥとため息が漏れた。今日はもう帰り道以外は歩くまい。
コーヒーを待っている間に店内を見まわしていると、夫に「落ち着きがないな」と言われた。
「このお店、芥川龍之介の小説に出てくるんだけど、当時はグラノフォンっていう蓄音機が中央に一台あったんだって。妄想が捗るじゃん」
そう、芥川龍之介だけではなく、谷崎潤一郎、与謝野晶子、森鴎外…ここはたくさんの文人が愛した店だ。まるで恋の如く。



小冊子をぱらぱらと読み終えても、コーヒーとケーキはまだ到着しない。私は席を立って、レジ付近に陳列されているお土産用のコーヒー豆を物色し始めた。
カフェーパウリスタのお土産のコーヒーのパッケージは、創業当時の広告がデザインされている。
しかし、そこには美しい女性店員ではなく、詰襟の制服を着た少年給仕が描かれているのだ。
ひとしきり物色し終えて席に戻り、私はすぐさま夫にお土産のプレゼンを開始する。
「ねぇねぇ、帰りにお土産コーヒー買おうよ、パッケージが可愛かったよ」
「買い置き、まだあるで」
「でもまた飲むじゃん、ほぼ毎週末淹れるし」
「ま、ええで」


しめしめ。プレゼンが成功したその時、オリジナルデザインのカップに注がれたコーヒーと、美味しそうなケーキが運ばれてきた。
もちろん、私たちのテーブルの給仕をしているのは、少年給仕ではなく成人済の店員だ。
テーブルに静かに置かれたカップの中で、黒々としたコーヒーが天井のシャンデリアの光を反射してキラキラと揺れる。
反射する光がなければ、地獄穴の如く黒いそのコーヒーを見つめながら、私はカフェーパウリスタの創業当時の宣伝文句を思い出していた。



《鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー》

これは銀座の老舗喫茶店、カフェーパウリスタの創業当時の宣伝文句。自由恋愛についてまだまだ風当りが強かったことを考えてみると、大変情熱的ですよね。
カフェーパウリスタの創業者も情熱的な人物ですが、その情熱は恋には注がれませんでした。
カフェーパウリスタの創業者は、「ブラジル移民の父」と呼ばれた水野龍氏です。パウリスタの人気の秘密であったお財布に優しい価格設定のコーヒーは、彼の移民事業がなくては成し得ないものでした。

「銀座でブラジルコーヒー」にはブラジルのコーヒー豆が必要不可欠ですが、コーヒー豆には労働力が必要不可欠です。
ブラジルでは明治21年(1888年)に奴隷が解放されました。

ブラジルは1815年までポルトガル植民地で、サトウキビ農場や金鉱山だけでなく、コーヒー豆の栽培も奴隷労働によって支えられていました。しかし、帝政時代に入ると国際的に奴隷制廃止運動の機運が高まります。
奴隷に代わって、当時清朝であった中国から、苦力(クーリー)の導入が検討されるも実現せず、外国人移民の大量招致が国策として実施されるに至りました。
当時は悪質な手代に騙される移民も少なくなかったそうです。水野龍氏は移民たちの実態を憂い、自ら移民事業を立ち上げました。

水野龍氏の移民事業は浮き沈みを繰り返しましたが、根気強く事業を続けます。その尽力に対し、サンパウロ州政府はブラジルコーヒーを無償提供しました。水野龍氏はこれを「補助珈琲」と称したそうです。
その代わり、サンパウロ州政府からは日本全国に17店舗のコーヒー店を展開する事と、日本でのコーヒー普及が義務として課されました。
当時はまだコーヒーを飲むのは一般的ではありません。これはなかなかハードルの高い要求だったことと思います。

そんな背景から、明治44年(1911年)、大阪・箕面にカフェーパウリスタ1号店が誕生し、同年に銀座店も開店しました。
しかし、カフェーパウリスタを支えた「補助珈琲」は大正12年(1923年)に打ち切られました。加えて同年東大震災が発生します。この際に銀座店は全壊したそうです。
壊滅的な被害を受けたパウリスタは、その後はコーヒー豆の卸売りにシフトしていきました。
その後、創業者の水野龍氏はブラジルに生涯を捧げ、ブラジルの土となりました。



明治44年(1911年)に開店したカフェーパウリスタ銀座店は、蓄音機に鏡張りの店内、夜には電飾が灯る白亜の喫茶店だったのだそうです。
現在のパウリスタはクラシカルな木目調の店内です。可愛らしいデザインのカップに注がれた黒々としたコーヒーを覗くと、天井の光を反射してコーヒーがきらきらと輝きます。
大正時代の銀座でハイカラな文化を楽しんでいた人々も、同じ光を見ていたのかもしれません。
鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱いコーヒーを飲みながら。


出典
「銀ブラ」の語源を正す―カフエーパウリスタと「銀ブラ」 星田 宏司/岡本 秀徳 (2014)
国立国会図書館 コラム「カフェーパウリスタと補助珈琲」
サンパウロ人文科学研究所


大正浪漫譚は、時を超えて紡がれる物語を毎週日曜の夜にお届けします。
また来週お会いしましょう。

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