その深い緑色の表紙には、柴犬の切手が張り付けられていた。
どくらいの年代のものなのだろう。
「お、またなんか買って来たんか」
座って緑の表紙を眺めていた私の上から、夫がのぞき込んできた。
「うん、コレクション帳だよ。めっちゃ丁寧に保存してある」
昨日は久しぶりに、一人で神保町の古書店に行った。
ずらりと並んだ古書店の背表紙の中で、やけに目を引いたのが、この緑色の背表紙だ。
手に取ってみると、意外に軽かった。
それは、マッチラベルのコレクションだった。
表紙をめくると男性の名前が書いてあった。
1人ですべて集めたのだろうか、と思うとなんだか愛おしくなってしまい、
私は、そのコレクション帳を連れ帰る事にしたのだった。
夫と一緒にそのコレクション帳を眺めながら、緑の表紙をめくる。
薄い紙で、小さなポケットが何層も作られている。
きっと、前のコレクション帳の持ち主が丁寧に作ったのだろう。
その小さなポケットには、お行儀よく小さなマッチラベルが並んでいた。
ポケットから少し出ているところを、すっと指でスライドさせて、
1つ1つのデザインを眺める。どれもなかなか秀逸なデザインだ。
「デザインめっちゃ可愛い」
「昔のマッチ箱、ええよなぁ」
テーラー、洋食、日血用品…
様々な広告がデザインされたマッチラベルがお行儀よく並んでいる姿は、
なんだか小さな子供たちのようだ。

「昔のマッチラベルって薄いんやな」
「このくらいの時代って、マッチ箱が木製だったんだよね。で、それに紙ラベルが貼ってあったの」
明治時代に生産が始まったマッチは、日本の発展に貢献した産業のひとつ。
けれど、マッチの生産には有害な物質が発生する工程もあり、「命を縮める」と言われていた。
囚人や生活困窮者。
近代化に押しつぶされてしまった人々が、マッチの生産に携わったという事を、
私は最近知ったばかりだった。
次のページをめくると、猫のデザインのマッチラベルが目に飛び込んできた。
「毎度ありがとう 又おちかいうちに」
特徴のある字体で書かれた、独特な表現。時代を感じる言い方だ。

マッチの生産と並んで、日本の産業を支えたもの。
その中に、現代ではすっかり肩身の狭くなった「煙草」もある。
テーラーでスーツを仕立て、カフヱーで酒を飲み、出張で旅館に泊まる。
そんな男性たちへ広告を打つなら、煙草を吸う際に絶対に使うマッチは、最適な媒体だろう。
決して体に良いとは言えない煙草。
作ると命を縮めると言われたマッチ。
まるで悪魔のようなそれらは、それでも確かに、近代化の時代に人々に親しまれた存在だ。
こちらを睨む猫のデザインを見ながら、
私は、芥川龍之介の小説に登場した悪魔を思い出していた。
***
『では、あたらなかつたら――あなたの体と魂とを、貰ひますよ。』
-芥川龍之介『煙草と悪魔』
大正5年(1916年)に発表された、芥川龍之介の短編小説『煙草と悪魔』。
主人公の悪魔は、フランシスコ・ザビエルの一行に紛れ込んで日本に上陸し、キリスト教徒を誘惑しようとたくらみます。
しかし、日本にはまだキリスト教徒はいません。
たくらみは失敗に終わり暇になった悪魔は、隠居老人よろしく、園芸を始めます。
しかし、悪魔が育てていたのは、ただの植物ではなかったのです――
「悪魔が煙草を日本に広めた」
そんな珍妙な説をコミカルに描いた物語を書いた芥川龍之介も、有名なヘビースモーカー。
彼が魅入られた煙草は、金色のコウモリが羽を広げるモダンなデザインの「ゴールデンバット」です。
きっと、ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。
ゴールデンバットは、煙草の専売制が始まって間もない明治39年(1906年)に発売されました。
大正から昭和にかけて、商業デザインの発達と共に、杉浦非水などの著名なデザイナーもデザインを手がけています。
煙草は、ただの嗜好品ではなく、
今では「大正ロマン」と呼ばれるようになった当時のデザインを、成長させた一面も持ち合わせていたのです。
そんな煙草は、今でも人々に愛される、大正ロマンな観光スポットにも縁があります。
専売制がはじまる前の、明治時代。
煙草商人、村井吉兵衛は事業で大成功をおさめ、「煙草王」と呼ばれるようになります。
当時の大商人には、賓客をもてなすための迎賓館を建てることは当然でした。
村井吉兵衛もそれにならい、明治42年(1909年)、生まれ故郷である京都に迎賓館を建設します。
この迎賓館が、国指定重要文化財である長楽館。
カフェとして気軽に利用できるほか、ホテルとして宿泊することも可能な施設として、
令和の今でも人気を博しています。
煙草は、今でこそ煙たがられる存在ではありますが、
「大正ロマン」と呼ばれる、都市生活に根差したモダンな文化を、
経済的にも文化的にも支えた存在でもあるのです。
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時を超えて紡がれる物語『大正浪漫譚』は、日曜の夜にお届けしています。
また来週お会いしましょう。

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