「ここにはね、トランプのうちハートだけが無いんですよ。
幸福は我が心にあり、が彼の処世訓ですからね。ハートは自分で持ってるってことかもしれません」
この可愛らしい洋館に着いたときは、白髪の紳士からこんなキザな言葉を聞く事になるとは全く思っていなかった。
ここ、文化のみち橦木館は、陶器商として成功した井元為三郎氏が大正時代に建設を開始した2階建ての洋館だ。
「文化のみち」と呼ばれるエリアの施設にはボランティアスタッフがおり、定刻になると見どころを解説してくれる。
こうした試みは意外に各所で見かける。しかし、ここ文化のみちのボタンティアスタッフはサービス精神が旺盛な方が多いようだ。
「かっこいいですね」と言うと、「そうでしょう」と絶妙なタイミングで同意する。完璧な相槌だ。
この部屋は娯楽室と呼ばれており、トランプやチェスをモチーフにしたステンドグラスとサンルームが印象的だ。
降り注ぐ光がユニークな図案のステンドグラスをますます輝かせている。
思わず乙女化してしまい、胸に手を当ててため息をついた。なんて可愛いデザインなのだろう。

この屋敷の主が趣味に生きた人であろうことは、この洋館を見学すればすぐに分かる。
しかもかなり豪華だ。当時、個人宅に使用するにはまだ高価であったであろうステンドグラスが各所にあしらわれている。
一度くぐって来たものの、もう一度玄関のステンドグラスが見たくなった私は、1階に戻ってみた。
よく見ると、トイレの入り口も小鳥があしらわれたステンドグラスだ。玄関付近だけで4種類のステンドグラスがある。
ひとつひとつがお洒落で可愛い。豪奢なものが好まれる名古屋の文化も感じられる。
「さっすが名古屋…」と私がつぶやくと、受付にいた女性がニコニコとこちらを見ていた。

私がキザな解説を聞いた2階部分は、接待用スペースだろう。
居住スペースであったであろう和室はかなり広かったが、戸袋の手掛かりが蝙蝠であったりとかなり洒落ている。
その日、その広々とした和室では保護猫の譲渡会が開かれていた。
2段ほどに積み上げられる籠の中には、にゃーにゃーとこちらを見て鳴く子猫たち。
かつてはこの可愛らしい洋館の主が日常を過ごした安息の場所が、今は小さな命を繋ぐ場所となっている。
譲渡会に来た客があやつる羽の玩具で遊ぶ子猫たちと、それを見て笑顔を浮かべる人々を見ていると、幸福という物の形は100年前も今もあまり替わりないのかもしれないな、と思う。
洋館部分の1階はカフェスペースになっている。昔は食堂だったそうだ。
テラスの向こうには贅沢な庭と茶室が見える。さすが趣味人のお屋敷だ。
コーヒータイムを決め込んだ私は、2羽の小鳥が描かれたステンドグラスが良く見える席に座った。
きらきらと陽の光が降り注ぐテーブルに運ばれてきたコーヒーは、なんともいい香りがした。
趣味人の井元為三郎氏はきっと、空間が自分の生活を彩る事を知っていたに違いない。

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自分の生活に適ふやうに、自分で設計して、自分で建てた家に、住むことができるといふことは、人間一生の幸福の一つであります。
文化のみち橦木館の建設が始まった大正14年から4年後。
昭和3年の雑誌『主婦之友』の『住宅と家庭生活』というタイトルの特集は、こんな一言から始まりました。
残念ながら会社概要が見つけられませんでしたが、大森八景坂にあった東洋製菓株式会社理事の華やかな邸宅や、
現在は記念館として和歌山県新宮市に移築された作家の佐藤春夫の邸宅、そして、日本映画界初期の人気女優である栗島すみ子の邸宅など、そうそうたる顔ぶれの著名人たちの邸宅が紹介されています。



当時流行のライト風建築、文化人に相応しい中国趣味の書斎、
純和風の外観に西洋風の応接間や稽古用の和室をしつらえた実用的な空間。
それぞれの好みやライフスタイルを反映した、個性的な邸宅ばかりです。
このような瀟洒な住宅は、東京では大正12年(1923年)の関東大震災を契機に増加したと言われています。
震災での被害は大きなものでしたが、電気やガスなどの整備が進むきかっけにもなったのです。
それ以降は従来の長屋に代わって、木造2階建てのアパートも出現し、2階建て長屋も増えたのだとか。
しかし、雑誌に載るような有名人たちの住む豪華な住宅は、庶民にはまだまだ手の届かないものだったでしょう。
文化のみち橦木館をはじめとした当時の住宅からは、都市生活の基盤整備から心地よい暮らしを追求する流行が始まったことが分かりますね。
モダンな外観を持ち合わせながらも、陽の光が降り注ぐ心地よい空間で、趣味に興じる時間を楽しむことができる「余白」。
井元為三郎氏の「幸福は我が心にあり」という言葉は、個人としての生き方を模索することが始まった、
新しい時代の幸福論でもあったのかもしれません。

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光と幸せの形をめぐる小さな旅は、これにて閉幕となります。
一緒に愛知を旅していただき、ありがとうございました。
時を超えて紡がれる物語『大正浪漫譚』は、毎週日曜の夜にお届けしています。
また来週お会いしましょう。
宮寺理美

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