《鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー》
これは銀座の老舗喫茶店、カフェーパウリスタの創業当時のキャッチコピー。
大正時代、熱烈な恋の如く人々を魅了したコーヒーの謳い文句として、これ以上適切なものがあるでしょうか。
令和の現代も、カフェーパウリスタは銀座で営業を続けています。
店頭に置かれた小冊子には、こんな文章が寄せられていました。
交詢社前にあった旧銀座パウリスタは、大正の佳き時代、文化の新風の担い手として多くの人々に愛されましたが、1923年の関東大震災で惜しくも焼失しました。
ー『カフェーパウリスタ銀座店のご案内』より
戦中・戦後を経て1970(昭和45)年に創業店から歩いて三分ほど、西洋文化の中心地である銀座にコーヒー文化の担い手として、カフェーパウリスタ銀座店が再開されました。
大正時代の銀座でコーヒー旋風を巻き起こしたカフェー・パウリスタは、
「我ここに在り」と言わんばかりに、数々の文学作品に登場します。
ある粉雪の烈しい夜、僕等はカッフェ・パウリスタの隅のテエブルに座っていた。
ー芥川龍之介『彼 第二』より
その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、
白銅を一つ入れさえすれば音楽の聞かれる設備になっていた。
その夜もグラノフォンは僕らの話にはほとんど伴奏を絶ったことはなかった。
「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すからグラノフォンを鳴るのをやめさせてくれって。」
「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を銭ずくでやめさせるのは悪趣味じゃないか?」
「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を金ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」
「彼」のモデルとなったのは、
芥川龍之介が大正2年に出会ったアイルランド出身の新聞記者だそうです。
グラノフォンとは蓄音機のこと。
大正初期に蓄音機がある瀟洒な喫茶店は、文学を志す若者達をどんなに魅了したことでしょう。
公園のどこかで一休みすると、我々の足は申し合わせたように一斉に自然と新橋の方面に向かい、
ー佐藤春夫『詩文半世紀』(読売新聞社 1963年)より
駅の待合室で一休みしつつ旅客たちを眺めたのち、
「パウリスタ」に行ってコーヒー一杯にドーナツでいつまでも雑談に時をうつしていると、学校の仲間が追々とふえてくる。
みな正規の授業をすました上級生たちである。
1杯5銭、ドーナツ付き。
それがカフェーパウリスタのコーヒーの価格です。
カフェーパウリスタは、同時期に流行したカフェープランタンとよく比較されます。
カフェープランタンでは酒類も提供していて、2階は会員専用スペースだったそう。
会費は50銭。この価格はパウリスタのコーヒーの10杯分ですね。
金持ちの文化人をターゲットにするなら適切な価格帯、かつ適切なやり方でしょう。
しかし、酒類を提供するカフェは、
この後に「綺麗なお姉さんがいるいかがわしい店」に変貌を遂げます。
敷居が低く財布に優しい価格設定のカフェーパウリスタは、
日本の都市部にコーヒーという文化を定着させていきました。
しかし、その心優しい価格設定には、
当時の日本政府が推進していたブラジル移民政策が関わっている事を知る人は意外に少ないです。
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カフェーパウリスタの創業者は「ブラジル移民の父」と呼ばれた水野龍氏という人物です。
国内の移住希望者たちをとりまとめて渡航先に送り、
現地の農園主などに引き渡すのが水野龍氏の生業。
日本人が初めて海外移住したのは明治元年だと言われています。
江戸時代の終焉直後には、ハワイ契約移民として120人が農業移住しました。
これが水野氏の実績となり、
日本政府の移住政策に応じた大規模移民の781人がブラジルに到着したのは明治41年です。
明治時代の政策はよく「文明開化」と呼ばれます。
「文明開化」という言葉には大変華やかなイメージを持たれがちです。
しかし、私が思うに、
これらの政策が民衆に行きつくのはまだまだ先の時代。
明治時代の華やかな「文明開化」の恩恵は、貴族・軍人など一部の特権階級が享受するにとどまっていました。
農村部の人々の生活はまだまだ苦しく、
また、海外の農業大国は労働者を必要としていた背景もありました。
ブラジルでは1888年(明治21)年に奴隷が解放されました。
1810年には、当時清朝であった中国から苦力(クーリー)移民の導入も検討されています。
しかし、これは実現しなかったようです。
当時のブラジルでは、奴隷や苦力に代わる労働力が必要でした。
ブラジルは1815年までポルトガル植民地。
植民地時代のサトウキビ農場や金鉱山での労働を支えたのは、奴隷たちの労働力です。
しかし、帝政時代に入ると、国際的な奴隷制廃止運動の圧力が強まりました。
そんな中、ブラジルでは 「コーヒーサイクル」が到来します。
当時のブラジルの主要な輸出品はコーヒ。
結果的に、外国人移民の大量招致が国策として実施されるに至りました。
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奴隷に代わる労働力が求められる職務が、苦しくないわけがない。
それは考えなくとも分かる事です。
しかも、当時は悪質な代理人や手代に騙される移民も少なくなかったそうです。
水野氏は移民たちの実態を憂えて、自ら移民会社を立ち上げました。
水野氏の移民事業は浮き沈みを繰り返し続けるます。特に当初は大失敗。
しかし、水野氏は根気強く事業を続けます。
そして、あらゆる手を尽くして事業を続ける彼の貢献と事業頓挫に対し、
サンパウロ州政府はブラジルコーヒーを無償提供しました。
水野氏はこれを「補助珈琲」と称したそうだです。
もちろん、これはただの温情ではありません。
水野氏にはサンパウロ州政府から、
なんと全国17店舗のコーヒー店の展開とコーヒーの普及が義務として課されました。
1911年、大阪・箕面にカフェーパウリスタ1号店が誕生し、同年、銀座店が開店。
蓄音機に鏡張りの店内、夜には電飾が灯る白亜の喫茶店の誕生です。
しかし、カフェーパウリスタを支えた「補助珈琲」は1923年に打ち切られました。
加えて、関東大震災が発生。
これを受けて、カフェー・パウリスタは閉店しました。
移民政策も大正時代の文化風習にも馴染みが無い方でも、
恐らく『銀ブラ』という言葉は1度くらいは聞いたことがあるでしょう。
水野氏に課せられたコーヒー普及の使命が、十分に果たされたことを物語っていますね。
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開店当初の銀座店は、関東大震災の折に全壊したそうです。
壊滅的な被害を受けたパウリスタは、その後はコーヒー豆の卸売りにシフトします。
焙煎担当で、経営幹部の一人でもあった長谷川主計氏が社長に就任し、
現在は主計氏の孫にあたる長谷川勝彦氏が代表取締役を務めました。
一方の水野氏は、ブラジルに生涯を捧げ、ブラジルの土となりました。
あえて自ら言う事はあまりありませんが、私はコーヒー党です。
私が「レトロで素敵」だと思っていた『銀座でブラジルコーヒー』には、
こんなにたくさんの人々の人生が注ぎ込まれています。
《鬼の如く黒い》コーヒーは、よく光を反射します。
窓の光。照明の光。
私はそれを見るのが好きです。
今度その光を見る時、きっと私は、ブラジル移民と水野氏の事を思い出すのでしょう。
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【出典・参考書籍】
『ブラジル・コーヒーの歴史』堀部洋生 (1973)
『日本で最初の喫茶店 「ブラジル移民の父」がはじめた―カフエーパウリスタ物語』長谷川泰三
『銀座細見』安藤更正
国会図書館NDL ブラジル移民の百年
JICA 移民の歴史を未来に伝える ブラジル
COFFE TOWN 日東珈琲 株式会社代表取締役社長 長谷川勝彦
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