薄暗い夕方の坂道の上から猫が鳴いていた。
少し近づいてしゃがんでみると、ごろごろと転がりながら甘えてくる。
長崎の猫は随分愛想が良い。
「人に慣れてるねえ」
「腹たっぷたぷだもんな。近所の人から飯貰ってるんやろな」
重厚な洋風建築の交番の建つ丸山町は、江戸時代、日本で唯一外国人をもてなした丸山遊郭の名残だ。
夫のふるさと、愛媛の八幡浜港からフェリーに乗り九州に来た私たちは、大分県別府市の次は長崎に降り立った。
到着する頃にはもう夕方になっていた。
せっかく来たからにはと、南京町で長崎ちゃんぽんに舌鼓を打った後、私達は腹ごなしの散策をしていた。
私が歩いてみたいと思っていた場所は、実際に歩いてみると思っていたよりも隣接している。
長崎は意外にもコンパクトな作りで、歴史散策にぴったりの街だった。

私に撫でられることに飽きのか、猫はふいに青黒い夜の空気に紛れ、どこかに行ってしまった。
猫の後ろ姿を見送り、少し周りを見渡すと、まだまだ散策し甲斐のありそうな景色が広がっている。
「あ、あそこ、花月だ。行きたいって言ってたところ」
「ああ、卓袱料理な。また今度食うか」
史跡料亭花月。元々の店名は「引田屋花月楼」。丸山遊郭随一の規模を誇る遊郭だ。
「坂本龍馬の刀傷、見たくない?岩崎弥太郎も池に落っこちたらしいんだよね」
「やりたい放題やな」
もう少し歩けば長崎検番。こちらも元遊郭の、雰囲気たっぷりの木造建築だ。
芸者衆の名前の書かれた提灯は点いていない。どうやら今日は休みのようだ。
遊郭と芸者衆の世界は、まったく別の世界だと思われがちだ。
けれど実際には、一流の接待が必要な場所でもあった。
舞踊や音楽は、検番の存在によって磨かれ、令和に受け継がれている。
そうした文化の「地層」が、確かに感じられた。
素晴らしい建築に文化が息づいていることを感じ、感嘆のため息をついた、その時。
ふと、通りの突き当りを見た私は、サッと足先が冷たくなった気がした。
高い高い壁に、蔦が青々と茂っているのが見えた。元遊郭の「料亭青柳」だ。
丸山遊郭には堀も大門も無い。その特性から、比較的自由だったと言われることも多い。
遊女たちも許可があれば出入りできたという事を知った時、私も同じように思った。
けれど、その高い壁の前に立ってみると、私には、自由を感じることなどできなかった。
誰かに監視されているような圧迫感がある。
見上げてみと、生い茂る蔦には終わりが無いようにも見えた。
目を細めて見ていると、少し視界がぼやけた。
高い高いその壁の中にいた、舶来のびーどろや鼈甲、豪奢な衣装に身を包んだ女性と、視線が交わったような気がした。
その時、遠くで猫が「にゃあ」と泣いた。
まるで、誰かを探しているように。

***
長崎に丸山という所なくば、上がたの金銀、無事に帰宅すべし。
爰通いの商ひ、海上の気遣ひの外、何時をしらぬ戀風おそろし
ー『日本永代蔵』井原西鶴
『好色一代男』などの浮世草子の作者として知られる井原西鶴は、
戯作『日本永代蔵』でこんなことを言っています。
「長崎に丸山遊郭がなかったら、稼いだ金は上方に無事に帰るのになぁ」
「海上の気遣いより、いつ襲ってくるか分からない恋風の方が恐いよ」
という商人目線のぼやきでしょうか。
江戸時代、長崎は日本で唯一海外との交易や交流を許された場所です。
歴史の教科書にも登場しますね。
その土地柄、丸山遊郭の遊女たちは、いち早く西洋文化に触れた女性たちでした。
なんと、長期滞在の外国人たちの身の回りの世話までしていたというから驚きです。
彼女たちの豪華な装いや、外国人の客から受け取るハイカラな贈答品は、本当に江戸時代の事なのかと目を見張るほど。
寛政9年(1797年)に記された長崎丸山の遊女の「貰い品目録」には、”こおひ豆1箱” “しょくらあと6つ”など、
遊女たちがいち早く西洋の文化に触れていた痕跡が記されています。
ちなみに、この時期は、質素倹約令で有名な「寛政の改革」が実行されていた時代です。
でも、ゴージャスさが売りの丸山遊郭の遊女には、関係なかったのかもしれません。

しかし、そんな華やかな文化を纏うこの街の入り口には、不思議な空気を纏う交番があります。
いつの時代からそこにあるのか分からない重厚な洋風建物は、
元々は、遊女の逃亡を防ぐための見張り番だったという説もあります。
車の通ることができない狭い路地、蔦の茂る高い壁。そして見張り番。
丸山遊郭の跡地を歩くと、歴史ある木造の料亭や、元引手茶屋などに、歴史を学ぶ機会にすぐに出会うことができます。
そして、その細い路地を歩いてみると、風情のある風景に感嘆すると同時に、
ここから逃げることは到底無理だとも感じます。

また、実際にこの街を歩いてみて、
原爆投下という惨事がありながらも、その爆風を天然の要塞である地形が防ぎ、
現在まで歴史的な建造物が受け継がれている長崎の奇跡を感じました。
遊郭の料亭や赤線の近くで、人間と共生しながら生きてきた猫たちも、
今は近所の方に可愛がられ、つやつやの毛並みで満足そうにしています。
***
時を超えて紡がれる物語「大正浪漫譚」は、毎週日曜の夜にお届けしています。
今回からは時代、海、そして文化の境界を超える場所、長崎編。
また来週お会いしましょう。
宮寺理美
<出典・参考>
一般社団法人日本洋菓子協会

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