こんにちは、宮寺理美です。
いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。
2025年より「大正浪漫譚」と題したシリーズを書き始め、
自分主体の記事は少々お休みさせていただいていました。
今回は昨年の旅行の中から、私が「大正の夢の続き」として描けなかった物語を書きます。
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昨年の秋頃。
夏の蒸し暑さがなかなか去らず、むしむしと不愉快な天候が続いていた頃、
私は気分転換の意味も込めて、夫と共に、初めての場所に出かける事にしました。
そこで私が目にしたのは、かつて「赤線」と呼ばれた歓楽街。
今にも崩れそうな、しかし確かに目の前にある、女性たちの軌跡でした。
私がこの街、大分県別府市に降り立ったのは、いつもの「歴史旅行」の途中でした。
夫の実家である愛媛県八幡浜市は別府と同じく港町。
別府港に着くフェリーに乗り込んだ時は、ただそこを通り過ぎるだけのつもりでいましたが、
港の近くでレンタカーを予約した私たちは、ついでに温泉地である別府を観光することにしたのです。
実は昨年、私は病気ばかりしていて、この時期はまだ蕁麻疹の影響がありました。
温泉に入ることはできないけれど、温泉地は明治から大正の文豪たちが執筆のために滞在する、私の憧れの場所でもあったのです。
別府温泉でそんな時間旅行ができれば、と、この時は思っていました。
JR別府駅付近で車を停め、温泉街へ歩いて向かう途中、私はこの時の軽い気持ちを反省することになりました。

明治から大正にかけての歴史旅行を繰り返すうち、私はひとつの気づきを得ました。
それは、港町の「特性」です。
大体の場合、港町はその地の利から、古くから港がある場合が多いです。
そして、近代化の時代に鉄道が敷かれ、市民の足となっていきます。
元々の「玄関ドア」が港を向いている場合が多いのです。
車が通ることができる広い道や、商業施設、宿泊施設、そして歓楽街…
別府の場合もそれは同じでした。
駅は「玄関」ではなく「裏口」にあたる、とでも言いましょうか。
駅の近くにはレトロな共同温泉もあり、別府の町並みは整備されていて綺麗でした。
ほどよくレトロな雰囲気の商店街もあり、喫茶店や名物のとり天も美味しかったです。
お店の方も優しくおおらかな雰囲気で、素敵な場所だな、と素直に感動しました。
きっとこれらのお店や町並みは、鉄道が敷かれた後に徐々に整備されたのでしょう。
私がここで満足して、次の場所へ行っていたら、きっと今回の記事は書かなかったと思います。


JR別府駅から、かつての「玄関」である港の方向を目指して歩くと、
明治12年(1879年)に創設され、何度も改築を重ねて現在の形に受け継がれた竹瓦温泉があります。
唐破風造り、と呼ばれるその建物は、一度見てみたいと前から思っていたのです。
その他にも気になる元美容室の建物などがあり、あまり来ることのない別府の街をもう少し散策することにしたのです。

駅の近くから竹瓦温泉を目指し、スマホでGoogleマップを見ながら歩いていたその時です。
私の目の前に、かつて「赤線」と呼ばれた町が現れました。
風景としては、少々古くて小さな建物の連なりです。
しかし、赤線には、その業種の特性からか、少し変わった特徴のある建物が多いのです。
その風景に、足が少し震えているような気がしました。


古くからの温泉地である別府に、赤線や遊郭が存在していたことは、前々から知ってはいました。
でも…目の前の「赤線」と思しき建物の数。エリアの巨大さ。
それは、私がいままで探して見てきた「痕跡」とは質の違う物でした。
広い。とにかく広い。
進めば進むほど、それらしき建物が目につきます。

こうなってくると、すべての建物が赤線に見えてきてしまいます。
自分の中の先入観が原因なのでしょうし、こういうことは過去にも経験がありました。
でも、この時の私は完全に空気に呑み込まれていました。
現在の消防法では、おそらく建て替える事も叶わないであろう建物もいくつもあり、
きっと徐々に姿を消していくのだろう、と思いながら写真を撮ることしかできませんでした。
多くの赤線は、居酒屋などに姿を変えて、今も店舗として活用されていました。
しかし、狭い狭い路地裏には、まだネオンの灯った看板がありました。
普段なら速足で通り過ぎてしまうであろう、「その手のお店」の前で、私は思わず立ち止まってしまいました。

明治時代以降、観光地として温泉地を開発したのは、別府温泉だけではありません。
そして、その多くの温泉地には、こうした歓楽街が存在していました。
実際、夫の実家である愛媛県の道後温泉にも、比較的最近まで赤線跡や、ストリップショーの劇場があったそうです。
しかし、私はこれらの店が「その手のお店」として稼働しているところは見たことがありませんでした。
「赤線」は過去のもの。私は、過去をたどっているーずっとそんな風に思っていたのです。
しかし、私の目の前でちかちか瞬くネオンは、そんな私の甘い考えを打ち砕きました。
私はよく、大正浪漫譚で「大正ロマンの夢の続き」なんて表現をしています。
が、目の前にあったのは、赤線という生身の存在だったのです。
***
大正浪漫と呼ばれる、華やかで美しい時代のすぐ隣で、
別の現実を生きてきた女性たちがいました。
それを知ってしまった以上、私はどうしても、
片方だけを物語として取り上げることができませんでした。
私が遊郭や赤線を書き続ける理由は、たった一つだけです。
時代に押しつぶされ、文化財として守られることもなく、
静かに消えていった彼女たちが確かに生きていたこと。
その証を、なかったことにしたくないのです。


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