【大正浪漫譚】浪漫譚のはじまり ー 東京と大正浪漫

大正浪漫譚



こんにちは、宮寺理美です。
これまでは過去に書いていたnote記事をベースに、
長めの解説などをこちらに書く事が多かったのですが、
内容が重すぎるなぁと感じ始めていたのものあり、
今後は「楽しみながら読んでいただける」を目指してみようと思います。
とは言え、私の基礎となるのは大正浪漫であることは変わりありません。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
新たに始めるこのシリーズを、大正浪漫譚と名付ける事にしました。





現代の日本で「大正浪漫」という言葉を知らない者は少ないかもしれない。

実際の大正時代にはこの言葉はまだ存在しておらず、後世に誕生した言葉だとされている。
大正時代の文化風習だけでなく、当時の雰囲気を意味することもあるが、
最近では大正浪漫というイメージが形骸化しており、
麻の葉や矢羽根といった伝統文様がほどこされた物であっても、大正浪漫の名を冠して販売される事もしばしばあるようだ。
近年ますます盛んになった、大正浪漫のイメージを焼き直したようなアニメや漫画の登場で、
虚像はますます膨らみ、大正時代がどんな時代だったのかを把握している者は意外に少ない。
私、宮寺理美は、東京の街をアンティーク着物を着て散策するのが好きだ。
ただ歩くだけでは見落としてしまいがちだが、古い服には何か吸引力のようなものがある。
アンティーク着物が、東京に点々と残る大正時代の痕跡に私を案内してくれるのだ。

私は、その日もいつものようにアンティーク着物の着付けを終えた。
着付けは手間がかかるが、それよりも時間がかかるのは、実はヘアメイクの方だ。
今日は大正時代から昭和初期にかけて、マルセルウェーブと呼ばれた髪型を真似た。
細いヘアアイロンでウェーブを作って、丁寧にヘアセットする。
「できた!」
私が口にすると
「おう、できたか」
と夫が返事をする。
「まだ顔だけな」
と答えた、その瞬間だ。
私のくるぶしに強かに何かが当たり、鈍い衝撃音と痛みが私を襲った。
痛みが引きかけた時に何が当たったのか確認してみると、自分がコレクションしている古書を一時的に保管しているプラスチックの収納ケースだった。
「ま、た、か、よ!!!!」
苛立ちまぎれに言ったものの、そこにそれを置いたのは私だ。それは私が1番よく分かっている。
夫は寝ころんだまま私を見、
「大丈夫そやな」
と言った後、尾崎紅葉の『金色夜叉』を再び読み始めた。

私がアンティーク着物や大正時代の文化やファッションを愛好するようになって、10年余りの月日が経った。
古書、古雑誌、古新聞、着物、古絵葉書、古食器、気に入ったものはとりあえず買うという生活を続けている私の辞書に、整理整頓という言葉は無いも同然だ。
これはきっと、収集癖の持ち主である人間の人生最大の課題であるはずだ。
骨董はその時買わねば二度目の機会はほぼない。買える時に買うしかないのだ。
もし、自分の欲しい物が目の前にあった時、自分の財布に金があれば、それは天命だ。
そんな人間に整理整頓などできるはずがない、いや、求めてはいけないのだ。

こんな私の人生最大の幸福は、収集癖の私と共に人生を歩むことを選んでくれた夫の存在だろう。
彼は結婚前も、事前に何の相談もせず、ハイカラさんスタイルで颯爽と集合場所に現れた私に1ミリも動揺せず「よし、行くか」と一言だけ放ち、何事も無かったかのようにスタスタ歩き出す男であった。
結婚してからは、私の事は同居している珍獣だと思っているらしい。
今日は夫と共に銀ブラをする予定だ。
「銀ブラ」は「銀座をブラブラする」の略称だという説もある。
しかし、大正浪漫愛好家の私としては「銀座でブラジルコーヒー」の説を推したい。

夫と共に家を出、新橋駅で地下鉄銀座線に乗り換える。
明治42年(1909年)開業の現在の新橋駅の、増改築を繰り返した構内はとても複雑だ。
階段をいくつも上り下りして、地下深いホームにたどり着き、銀座線に乗り換える。
ホームに滑り込んできたのは、1日数本しか走らないというレトロな茶色い内装の車両だった。
開業当時の旧1000形という車両の内装をイメージした車両は、壁や扉が木目調で、手すりも真鍮色。壁の予備灯も昔のものを再現しているそうだ。
銀座線の開業は昭和2年(1927年)。
日本最古の地下鉄であり、実は大正時代の人々はこの電車に乗ったことがないわけだ。
ちょっとした時間旅行の感覚である。

これから向かう銀座には、そんな大正時代後期から昭和初期にかけての「痕跡」が点在している。
それらの「痕跡」は、たくさんの人々が行き交う銀座で無言の存在力を放っているが、少々注意しないと見落としてしまう。
私は思う。東京は大正浪漫の街である。
さぁ、読者諸君、私と共に東京を歩いてみようではないか。
シャーロック・ホームズの読みすぎだって?ほっといてくれ。



明治天皇の崩御と共に、大混乱の明治時代は45年で幕を閉じ、そして大正時代が到来しました。
本当の意味での日本の近代化は、大正時代から始まったと言っても過言ではありません。
明治時代までは一部の人々しか触れる機会がなかった西欧の舶来品も、明治時代後期から大正時代にかけて国内製造化が進み、価格が安価になりました。
西洋の文化が一般の人々の手に渡り始めた時代なのです。
こうして、旧来の生活様式と西欧から到来した新文化が混載された、和洋折衷の大正ロマン文化が開花しました。
それと同時に、江戸時代までに培われた旧式の価値観が無ければ、大正浪漫は生み出されなかったわけです。
新しい文化に対する反発は、今日の重要文化財保護法などにも繋がっていきます。

しかし、それは都市部に限られたことでもありました。
新しいビジネススタイルと文化装置としての機能が結びついた百貨店の存在はとても大きく、東京という地域と大正浪漫は切り離すことができません。
元々、様々な商店があった東京で、新しい時代の到来とともに様々な分野で新規参入事業者も出現しました。当然、老舗店にもかつての営業方法を刷新する必要が生じます。
今日、大正浪漫と呼ばれる文化は、こうした都市部の変化とともに誕生したのです。
つまり、東京は大正浪漫の街と言っても過言でもありません。
その文化の片鱗の多くは、先の大戦で焼失してしまいました。
しかし、令和の東京でも大正浪漫を発見することはもちろん可能です。
空襲を逃れ、現在まで受け継がれた大正ロマン文化は、よく観察しないと発見できません。
東京の街を注意深く観察する者だけが、現代に生きる大正浪漫を見つける事ができるのです。

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