包丁から手のひらに伝わるざくざくとした感触と、立ち込めるチョコレートの甘い香り。
私はチョコレートが大好きなので、この香りだけでも幸せだ。
もうすぐバレンタイン。
お菓子メーカーから発売されるこの時期限定のチョコレートも毎年楽しみだ。
夫へのチョコレートという大義名分で、好きなメゾンのチョコレートを買い込むのが私の毎年の楽しみ。
でも、今年はちょっと趣向を変えて、手作りしてみることにした。
うまくできるかはまだ分からないので、夫には内緒だ。
私の探求心は天井知らずだ。最近は特に加速しているように思う。
大正時代は、西洋文化が市井の人々の生活に浸透し始めた時代だ。
それはファッションだけでなく、食文化にも深く影響している。
そのことに気が付いてからは、大正時代の食べ物にも興味が出てきた。
大正時代のラーメン、アイスクリーム、そしてクリスマスケーキ。
今まで、「大正ロマン」は鑑賞するばかりだったが、まさか食べられるなんて思ってもみなかった。
これは私にとって大発見だった。
でも、作るとなれば、1人分の分量で作るのは結構難しい。
ラーメン屋に1人で行くのも、私にはちょっとハードルが高い。
結果的に夫に付き合ってもらうものの、特にラーメンは夫の口には合わなかったようだ。
毎回夫を付き合わせるのも忍びなくなってきた。
というわけで、今回は内緒で試作をすることにしたのだ。
もしうまくできたら、独り占めという贅沢ができるかもしれない、という小さな打算もある。
細切れになったチョコレートの破片を集めて、湯煎で温めて溶かす。
甘い匂いがますます強くなり、息を吸うだけで幸せだ。
今日、私が作ろうとしているスイーツは、夏目漱石の小説に登場するもの。
夏目漱石の甘党は有名だ。
朝食はバターと砂糖をたっぷり塗ったトースト。そして、おやつは羊羹やシュークリーム。
そんな甘党な漱石の作品には、ちょっと変わったスイーツが登場した。
それは、チョコレートを塗ったカステラだ。
しかも、代表作の『こころ』だけでなく、『虞美人草』にまで登場する。
もしかしたら、夏目漱石氏のお気に入りスイーツだったのかもしれない。
とろとろになったチョコレートを、そっとスプーンで掬い、カステラにゆっくり垂らしてみる。
チョコレートが卵色のカステラに、すう、としみこんでいく。
これが「鳶色のカステラ」かぁ。結構おいしそうだ。
ひとくち食べてみようとカステラをつまんで持ち上げた。
その時。
ガシャン!
と鍵が開き、玄関のドアが開いた。
「ただいま。お?なんかチョコの匂いするな」
あーあ。私の秘密はあっけなくバレてしまった。
夏目漱石の小説のようにはいかない。

*
*
*
実をいうと、奥さんに菓子を貰って帰るときの気分では、それ程当夜の会話を重く見ていなかった。
私はその翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、昨夜机の上に載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色のカステラを出して頬張った。
ー夏目漱石『こころ』
『こころ』は大正3年(1914年)に、朝日新聞で連載された小説。
言わずと知れた、夏目漱石氏の代表作です。
厭世的な「先生」と、その理由が分からない奥さん。
奥さんは「私」にちょっと重めの質問をしてしまい、その後でチョコレートが塗られた「鳶色のカステラ」を渡します。

大正時代のチョコレートは、現代とは違い、一般の人にとっては手軽に買う事ができない高級菓子でした。
その歴史の始まりは明治時代に遡り、チョコレートは高価な輸入品として発売されました。
当初は「牛の血が入ってる」なんていう噂もあったそうです。今聞くとびっくりしますよね。
だからこそ、小説『こころ』では、言葉にできない秘密を包み込む、罪悪感の味として登場するのでしょう。
友への裏切り。罪悪感。そして秘密。
その秘密のメタファーに選ばれたのは、背徳的で甘美な「チョコレート」だったのです。
時代が下り、大正時代になると、各企業の試行錯誤が功を奏し、カカオ豆からの一貫製造がスタートしました。
大正7年(1918年)には森永ミルクチョコレート、大正15年(1926年)には明治ミルクチョコレートと、
今でもおなじみの板チョコが登場。
しかし、大福や最中は1個5厘前後。森永ミルクチョコレートは1枚15銭。
工場での製造が成功しても、当時のチョコレートはまだまだ高級品でした。
横浜では、居留地に住むお金持ち向けに、
大正12年(1923年)にゴンチャロフによってウイスキー入りのチョコレート・ボンボンが発売されました。
大正時代のチョコレートは「恋の贈り物」ではなく、「贅沢な舶来の味」だったのです。
令和を生きる私たちは、当たり前にチョコレートを手に取り、誰かに贈ります。
けれど、大正時代のチョコレートはもっと特別なものでした。
どこか後ろめたい背徳の味。
文明の香りのするハイカラな味。
想いを託して贈るチョコレートの文化は、まだずっと先のお話です。
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時を超えて紡がれる物語『大正浪漫譚』は、毎週日曜の夜にお届けしています。
また来週お会いしましょう。
宮寺理美
<参考・出典>
モリナガデジタルミュージアム

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