【大正浪漫譚・銀ブラ編】愛と放浪と中華そば

大正浪漫譚


「萬福」と大きく書かれた看板は、いかにも町中華な太字のフォントだ。まだ開店時間前だったが、開店を待っている人もいた。
「すごい、開店待ちの人もいるね」
「行列やないけん、待っとけばよかろ」
夫とそんなことを言いながら外壁の掲示物に目をやると、創業者と思しき男性の写真が飾られていた。ここ、萬福の創業は大正4年だ。
この店の情報はたまたまネットで見つけた。創業当時からレシピを変えていない中華そばがあるそうだ。
今日の銀ブラ、つまり銀座でブラジルコーヒーに付き合ってもらう代わりに、夫には中華そばをゴチる約束をしていた。

萬福は銀座と新富町の間くらいにあった。看板や外壁こそレトロな雰囲気だが、上を見上げると現代的なビルであった。
開店時間と同時に店内に案内されると、まず最初に天井からぶら下がる乳白色の球体ランプが目に入った。年季の入ったテーブルもなんとも味わい深い。レトロなポスターや、アンティークであろう鏡も雰囲気がある。
私がネットで発見し、必ず食べると心に決めていたのは中華そばだ。メニューには、月日と共に色が薄くなった写真に「大正年間、支那そばの屋台を開業した当時の味です」という一文があった。
二人前の中華そばと餃子を注文して待っていると、次々と背広のサラリーマンが暖簾をくぐって入ってきた。私たちが入店して10分も経たないうちに、カウンター席も満席になってしまった。
どうやらサラリーマンには担々麺が人気のようだ。
中華そばを待つ間、迷惑にならない程度に店内を観察する。入口付近には当時の物と思しき木製の看板があり、消えかかってはいるが「西支料理」という文字が読み取れた。
開業当時は西洋料理と支那料理(中華料理)の両方を提供する西支料理店として営業していたようだ。



しばらくすると、女性店員が私たちの目の前に、ほかほかと湯気を立てる中華そばをどんと置いた。
透明感のある淡い醤油色のスープが美しく、三角形の卵焼きが個性的だ。チャーシュー、メンマ、ナルトとほうれん草のトッピング。
これが大正時代のラーメン!見た事もないはずなのになぜか懐かしい。なんとも感動的だ。
さっさと写真を撮ろうとスマホカメラを構えたその瞬間、我が夫君は私より一足先にラーメンをすすった。
しかし、口に入れた瞬間、夫は停止した。口の動きも停止している。
私たちは無言で視線を合わせる。しかし、夫は何も言わない。
きっと何か言いたいに違いないが、私も空腹だったので、とりあえず着物の襟に手ぬぐいをセッティングして構わず食べ始めた。夫の口も再び動き始めた。
目の前でほかほかと湯気を立てている中華そばを一口すすった瞬間、夫の動きが停止した理由の察しがついた。工夫し尽くされた現代のラーメンの、脂や濃い味に慣れ親しんできた夫の口には、このラーメンの味は素朴すぎたのだろう。結婚する前に好きだと言っていたラーメンは「背脂チャッチャ系」だったっけ。
確かに、屋台のラーメンを思い出す味だ。橋桁の下にあった木製の屋台のラーメンのような、なんとも言えない懐かしい味がした。
しかし、確かに手放しに美味しいとは言えないのかもしれない。大体の飲食店では、時の流れに逆らえずに味が変わっていってしまう。
「歴史の味がするね」と言ったら、夫は苦笑いしていたが、きちんと完食した。流石私の夫だ。
空っぽになった中華そばのどんぶりにまだほかほかと湯気が立っているのを見て、私は思い出した。
大正時代の文学作品にも、こうして中華そばをすすったであろうサラリーマンが登場したのを。



私は当時月給百五十円を貰っている、或る電気会社の技師でした。私の生れは栃木県の宇都宮在で、国の中学校を卒業すると東京へ来て蔵前の高等工業へ這入り、そこを出てから間もなく技師になったのです。そして日曜を除く外は、毎日芝口の下宿屋から大井町の会社へ通っていました。

谷崎潤一郎の代表作『痴人の愛』には、ナオミに翻弄される主人公・河合譲治のこんな自己紹介があります。
しながわデジタルアーカイブによれば、河合譲治の勤め先のある品川区でも、大正~昭和初期にかけて職工と並ぶほど増加したのがサラリーマンだと言われているそうです。

『痴人の愛』が刊行されたのは大正14年(1925年)。銀行や証券会社の発展、百貨店の登場、官吏の増加など産業の構造の変化もあり、教育制度の改革もじわじわと効いてきた頃です。
高等教育を受けた知識層が卒業と共に就職し、労働階級でも富裕層でもない新中間層であるサラリーマンという存在は、東京をはじめとした都市部に1つの階層ができるほど急速に増えていったのです。
『痴人の愛』は、元々は多くのサラリーマンも読んでいたであろう大阪朝日新聞の連載小説でした。田舎から上京した真面目なサラリーマンが、カフヱーで働く美少女を引き取ったら、とんでもないファム・ファタールだった、という筋書きがヒットしたのも頷けます。
こうした新中間層の出現や、円タクや路面電車などの交通機関の発達の影響もあり、外食という文化は都市部で急速に普及していきました。

「蓬莱軒のシナそば飛んで来い。」
昭和3年(1928年)から昭和5年(1930年)に雑誌連載された林芙美子の『放浪記』で、主人公がお腹を空かせた時に頻繁に登場するのが、当時支那そばと呼ばれていた中華そばです。
『放浪記』は困窮にあえぎながらも強く生きる女性像を描いた自叙伝的作品として有名な作品です。林芙美子が上京したのは大正11年(1922年)、翌年の関東大震災で東京は壊滅状態となります。
震災後は比較的開業しやすかった飲食店が増加し、東京の復興を支えたのでは、という見方もあります。

林芙美子が上京したころにはまだ屋台で営業されていた萬福の看板は「支那料理」ではなく「西支料理」でしたね。
大正浪漫と言えば、よくスポットが当たるのはコロッケ、カレー、ビーフステーキ、オムライスなどの洋食です。
しかし、当時支那料理と呼ばれた中華料理もまた、大正期にサラリーマンや労働階級の人々の胃袋を満たした存在だったのではないでしょうか。

※支那そばが中華そばと呼ばれるようになっていったのは1930年代のことです。第二次世界大戦前の中国の呼び名は支那でしたが、日中関係が悪化する中「支那」の呼称が侮蔑的だと中国側から抗議があり、徐々に使用されなくなっていきました。

出典
サラリーマン誕生物語 原 克 (2011)
〈サラリーマン〉の文化史 鈴木貴宇 (2022)
しながわデジタルアーカイブ

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